【 目 次 】 |
官報(大正6年9月13日付) |
米山梅吉と福島喜三次のダラスでの出会いは、日本のロータリーにとって極めて重要な ことである。これにより、日本のロータリー の性格が左右されたといってもいいくらいのものである。少し詳しくなるが、その出会いの模様をみてみる。
米山は、大正6年(1917)9月13日、その前日発布された勅令に基づき、男爵目賀田種太郎を委員長とする政府特派財政経済委員に任命された。そして、翌月の10月15日午後2時半、東洋汽船コレヤ丸で横浜港を出航し、米国に向かった。米山は、当時49才で、三井 銀行の常務取締役であった。 |
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任命裁可書(国立公文書館蔵) 任命の官報(大正6年9月14日付) 出張裁可書(国立公文書館蔵) |
委員長である目賀田(当時64才)は、若いころ留学するについて、イギリスよりもアメリカだといって、アメリカ、ハーバード大学に留学している。理財学者とされ、永年大蔵省に在籍し、横浜税関長、主税局長、醸造試験所長などを歴任し、朝鮮総督府の顧問などを務め、明治37年からは貴族院議員であった。そして、その夫人は、勝海舟の三女逸子である。
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一行は、ホノルルを経て、10月31日、サンフランシスコに着いた。そのあとセントルイス、シカゴ、ニューヨーク、ワシントンなどで、朝野の要人と交流を重ね、翌大正7年(1918)1月23日、やはりコレヤ丸でサンフランシスコを発ち、2月9日横浜に帰った。一行は2月11日、天皇に拝謁、4月20日には復命書が提出され、4月30日、その任を解かれた。また、委員は、5月23日、天皇より金杯1箇を贈られている。
米山が福島喜三次に会ったのは、この使節一行の日程の中での、大正7年(1918)元旦のことである。 ところで、福島喜三次は、佐賀県有田の出身で、明治14年10月10日の生まれである。長崎商業学校から東京高等商業学校(現一橋大学)を明治37年に卒業した。東京高等商業学校では、終始首席だったという。同級生には、第四次吉田内閣の昭和27年10月から翌年5月まで大蔵大臣をつとめた向井忠晴がいる。福島は、卒業と同時に三井物産に入った。初めは、門司支店に勤務した。翌38年5月ニューヨークに転勤し、オクラホマ、そしてヒューストン、さらにダラスで勤務した。 日本では、第一次大戦の活況にわき、棉花の輸入が増大していた。大正6年で、日本の棉花の輸入量の26%は、三井物産が占めていた。大正5年から8年まで、三井物産の扱い品のなかで、棉花のウェイトが15.6%と一番大きかった。そして、大正に入ってから、アメリカ棉がインド棉を凌駕するようになっていた。 三井物産におけるアメリカ棉の扱いは、明治39年、ニューヨーク支店の管轄下にオクラホマに出張員を置いて始めた。 その後、取扱量の増加により、その業務を専任させるためと州税法の関係から、三井物産は、明治44年(1911)9月1日、ヒューストンにSouthern Products Co.(南部物産)という現地法人の子会社を設立した。これにより、オクラホマの出張員は、その日廃止された。 この現地法人の初代社長は、藁谷英夫(オクラホマの最初の出張員)で、次席は、福島であった。福島30才になるかならないかのときである。この現地法人は、「多数の米人社員と一部のドイツ人を傭入れ、着実に成績を挙げていった。」という。 それから、すぐの明治45年(1912)7月、これをダラスに移した。ダラスは、米国南部の中心都市であり、棉花の集積地であった。1963年(昭和38)11月、第35代大統領ケネディが暗殺された都市でもあり、われわれにもよく知られたところである。 |
ダラス 1918年(大正7)ころ (『東京ロータリークラブ50年のあゆみ』より転載) ダラス 1990年(平成2)ころ (静岡新聞・静岡放送提供) 三井物産ダラス支部(大正8年6月) (『東棉四十年史』より) 福島家所蔵のサイン吋で『福島喜三次傅』より) 復命書の一部 |
この子会社は、大正2年頃で、米国内に支店6力所を設け、ロンドン、ハンブルグにも支店を置いた。
三井物産は、大阪支店に棉花部を置いていたが、大正3年ころから、本部、支部の制度をとるようになった。すなわち、主たった支店に棉花部支部員を置き、その損益を本部(大阪棉花部)に帰属するようにした。ダラスには支店がなかったが、ニューヨーク支店内にあったニューヨーク棉花支部をダラスに移すことにより、大正5年(1916)12月、棉花部ダラス支部が置かれた。 この棉花部ダラス支部は、大正8年頃で、社員19人、店限雇員24名がいたという。これと子会社との関係は定かでない。子会社の従業員を兼ねていたのかもしれない。 そのなかで、福島は、いつからであるか明確でないが、初代社長藁谷英夫の後、この現地法人や棉花部ダラス支部の最高責任者であったことであろう。『東綿四十年史』に、大正8年5月の棉花部長を中心としたダラスでの写真がある。真ん中の部長の右隣に福島が写っている。 なお、大正9年4月15日、三井物産棉花部が独立して東洋棉花株式会社が設立された際、このSouthern Products Co.の株式は、三井物産から東洋棉花に引き継がれた。このときの資本金は、50万ドル(設立時10万ドル)である。このSouthern Productsは、大正14年5月、資本金を50万ドルから30万ドルに減資し、その後の昭和2年8月解散した。一方、東洋棉花は、大正13年(1924)8月、ダラスに、資本金100万ドルでSouthern Productsとは別のSouthern Cotton Co.(南部棉花)という新会社を設立した。 このような状況下で、テキサス州ダラスにおいて、大正7年の元日が迎えられた。そして、ここダラス福島の家で、2人が邂逅するわけである。米山は、東部のニューヨーク(もしくはワシントン)からダラスに向かった。途中の東部地方は大雪であったことであろう。米山途上の句に「雪千里」とある位である。このとき米山49才、福島36才である。 福島は、ダラスでは、夫人とともに赴任していた。このことは、福島の夫人の話しにもあるし、『喜三次傅』にもある。とくに後者では、福島家に残されていたサイン帳にある米山の次のような小文、署名の写真を載せている。 はか[料]らずも御親切に なり此地に新年を迎え[へ]候を 永く記念すべく候 大正七年一月元旦 米山梅吉 途上の句一二 十三州は 昔なりけり 雪千里 メキシコの 境まで行く 枯野哉 テキサスの 野の東や 初日の出 米山と福島は、大正7年の元旦、ダラスで邂逅するわけであるが、一体米山は、なぜダラスまで赴いたのであろうか。ニューヨークもしくはワシントンとダラスは、決して目と鼻の先ではない。直線距離でも2000kmである。当時の交通機関の状況では、どんなに少なくても往復で3日は費やすであろう。しかも目賀田ら使節団一行は、12月25日にニューヨークの本部を引き払って、ワシントンに向かい大正7年元旦をそこのショーアハム・ホテルで迎えている。ダラス行は、使節団とは別の米山だけの単独行と思われる。 この使節団について、大正7年4月20日、目賀田委員長名で総理大臣に復命書が提出されている。この復命書は厖大なものであるが、その「日米共同事業の件並びに特別調査研究の件」という項目のなかの八から十四までは、「以上は主として米山委員之にとみ當る」とされていて、その十二に「南方に旅行し日米棉花貿易に関し将来の発展に就き取調をなしたること」という記載がある。この使節団の一部の委員は、カナダ、ウィニペグに行っている。これは、日本を出る前から予定されていた。米山のダラス行きはどうであったろうか。また、棉花貿易が日米の重要な関心事であることはそのとおりであろう。しかし、米山が現地を確認し、現地で説明を聞くという理由だけのことで、一行から離れて、遠くダラスまで赴いたと考えてよいのであろうか。それ以外に例えば、正月の休みを利用して、三井物産に融資あるいは借入の保証をしている三井銀行として、厖大となった与信を考え、棉花取引の現状を確認し、担当者から直接話を聞きたかったというようなことがなかったであろうか。 |
ダラスロータリークラブの標示 (静岡新聞・静岡放送提供) 揚子江 岳陽丸船上(大正7年11月29日) |
話変わって、福島の部下にドイツ人のウィリアムがいた。ウィリアムは、ダラスロータリークラブの会員であった。このウィリアムが帰国した。何年であるか定かでない。とにかく、1914年(大正3)7月、サラエボでのオーストリア皇太子の暗殺をきっかけとして、第一次世界大戦が始まった。そして、1917年(大正6)4月には、米国も対独戦に加わる。こんなことから、ドイツ人であるウィリアムは帰国した。ちなみに、1918年(大正7)11月には、第一次大戦が終わった。
その後をうけて、福島は、ダラスロータリークラブの会員となった。「東京ロータリークラブ50年のあゆみ」によれば、福島は、大正8年(1919)10月より2年程前に会員となった。これからすれば、福島が会員となったのは、大正6年(1917)の秋ころである。 米山が1918年(大正7)の正月を福島の家で過ごしたとき、ロータリーの話が出たかもしれない。しかし、このことは、憶測の範囲を出ない。ただ、米山が福島からロータリーの話を聞いたとすれば、福島のロータリーの話に興味をそそられたに違いない。もともとは、奉仕についての体質を宿していた米山の琴線に触れるものがあったであろう。米山は、大正3年(1914)には、既に「新隠居論」を著している。「新隠居論」のいおうとするところは、世の中で信用され、貴重な経験をした老人、なかんずく実業界の元老といわれる人は、よろしく自分の仕事を若い人に譲って、市町村の世話、学校、病院など公共の事業に尽して欲しい、というものである。米山は、実際に乱自らその実践をしている。 米山は、大正7年2月、訪米からの帰国後、3月には次女の婚礼、6月には、それまでのいたるところでの講演をまとめた『起てる米國』の出版、10月22日から12月12日まで、團琢磨と朝鮮、満州を経て、中国に旅行してる。こんなことから、塩原禎三(東京)は、巷間、米山が帰朝の直後から、ロータリー設立に尽力したといわれているが、帰朝後、東奔西走の月日を送っているのであり、帰朝直後から、ロータリー設立に尽力した形跡はないという。 |
支那帰国後の新聞記事 (大正7年12月14日付 中外商業新報 神戸大学附属図書館HPより) 東京銀行集会所 (『東京ロータリークラブ50年のあゆみ』より) 英文『東京ロータリークラブの歴史』 |
福島は、大正8年(1919)12月、帰国の途につき、翌大正9年1月帰国した。帰国に際し、ダラスクラブの会員から、日本にもロータリークラブを作るように勧められる。そして、大正9年(1920)2月28日付で、シカゴのロータリークラブ国際連合会から東京にロータリークラブを作るべく、特別代表を委嘱される。その期限は、大正9年(1920)の6月末までであった。しかし、その期限までにはできなかった。それで、福島は、6月29日、シカゴの本部に経過の説明をするとともに、電報で期限の延期を申し出た。これに対し、ロータリーの本部は、7月1日付で、パシフィック・メイル・スティームシップ(Pacific Mail Steamship)の横浜支店長のウィリアム・ジョンストン(W.L..Johnstone)を共同代表者に加えることを条件にこれを認めた。正確を期するために、塩原禎三の『東京RC創立について』の関係部分をそのまま引用してみる。ちなみに『東京クラブ50年』15頁以下の内容は、これによっていると思われる。
一方、福島は1919年12月に約2年に及んだロータリー生活に一応の結末をつけて帰国することになった。これより先ダラスロータリークラブの会長リチャード・メリウェザーは地区ガバナーR.E.ビンソン宛10月31日付で出状し、福島が日本にロータリーを設立できるかも知れないから、よろしく斡旋を願いたいと記している。この手紙はそのままシカゴに移牒され今日も保存されている。文中に福島が過去2年間熱心なロータリアンであったことか記されている。この事から米山・福島のダラス会談当時、福島か新入会員だったと推定される。 ダラスRC会長のこの手紙から、国際ロータリークラブ連合会、即ち今日の国際ロータリーが、東京にロータリークラブを設立すべく福島を特別代表に委嘱したのは1920年(大正9)2月28日付であった。クラブ設立の期限は同年6月末日までとなっていた。福島がこの委嘱状を入手したのは、恐らく3月も半ばを過ぎた頃であったろう。 そこで福島かロータリークラブ設立のためどういう手を打つたか明らかでない。設立経過について福島が、最初の報告を国際ロータリーに出したのはクラブ設立期限も迫った6月29日のことであった。チェス・ペリー事務総長宛のこの報告に次の如く記されている。 ゛当地事情を詳細調査の結果、大分前に全権を米山梅吉氏に一任しました。同氏は三井銀行の常務取締役であり、この目的(註・クラブ設立)のために最適任者であると考えます。最近になって米山氏は私を訪ねて見えました。この計画に対して強い熱意を示され、クラブ設立に明るい見通しを持っておられます。私も全く同感であります・・・・。” 同日、期限延長を電報で申請している。そして7月1日の返電で条件付で許可の旨云って来ている。その条件は元上海ロータリークラブ会長で当時パシフィック・メイル汽船会社の横浜支店長ウオルター・ジョンストンを共同特別代表として受入れる、ということであった。 福島は、大正9年(1920)2月、まだ38才で、本店に帰ってきて、三井物産の副支配人で、いわば勤め人であった。創立するためのメンバーを集めるには大変だと考えたのであろう。先にみたように、大正7年正月、ダラスで会った米山にその実質的な権限を託する。 こうして、米山は、大正9年8月、自らが選定したであろう18名を集めて、ロータリー創設の説明をする。その場所は、東京銀行集会所である。さらに 9月1日には設立準備委員会を開き、10月20日、やはり東京銀行集会所で、創立総会を開いた。このとき出席したのは24名中14名である。ここで、米山は、東京ロータリークラブ初代会長に選任される。福島は、幹事となり、翌日の10月21日に創立総会の終了をロータリーの本部に報告した。ここに日本におけるロータリークラブ第1号、東京ロータリークラブが誕生した。 ロータリークラブ国際連合会の加盟承認は、大正10年(1921)4月1日で、登録番号は、855番であった。なお、国際ロータリーは、この登録番号を1951年(昭和26)から止めている。 米山は、メンバーを選ぶについて、高い基準を設けた。いわば国家的な人物、国際的な視野を有する人物というのが選考の基準であった。このような考え方は、大阪ロータリークラブにもそして、その後のロータリークラブへと受け継がれた。国際的な視野ということからすれば、英語ができることが前提であった。 東京ロータリークラブの創立時の会員は、以下の24名である。現在の人にはほとんど知るところがないので、名前だけでなく、どんな立場であったかを東京クラブの『わがクラブの歴史』(昭30.05.25)から抜き出してみる。 ■深井 英五 日本銀行 理 事 銀行 ■藤野 正年 日本製麻 重 役 製麻 ■福島喜三次 三井物産 副支配人 羊毛輸入 ■藤田 譲 明治生命 重 役 生命保険 ■藤原 俊雄 内外興業 重 役 自動車販売 ■堀越善重郎 堀越商会 会 主 生糸輸出 ■星 一 星 製 薬 社 長 製薬 ■井上敬次郎 東京市電気局 局 長 電車 ■磯村豊太郎 北海道炭鉱 重 役 石炭 ■伊東米次郎 日本郵船 副社長 航海 ■岩井重太郎 日興証券 社 長 信託 ■樺山 愛輔 日本製鋼 社 長 製鋼 ■梶原 仲治 正金銀行 副頭取 為替 ■岸 敬二郎 芝浦製作 重 役 電器製作 ■北島 亘 北島商会 会 主 株式仲買 ■倉地 誠夫 三 越 重 役 百貨店 ■牧田 環 三井鉱山 重 役 鉱山 ■長野宇平治 建築技師 建築設計 ■小野英次郎 興業銀行 副総裁 産業銀行 ■佐野 善作 商科大学 学 長 教育 ■清水 釘吉 清 水 組 組 主 建築 ■対島健之助 東京日々 重 役 新聞 ■和田 豊治 富 士 紡 社 長 紡績 ■米山 梅吉 三井銀行 重 役 商業銀行 その後、英文『歴史』によれば、第1回例会と第2回例会の間に宮岡恒次郎(弁護士)、田原豊(三菱製紙社長)、三神敬長(南海産業社長)の3人が入会した。さらに大正10年7月に、朝吹常吉(千代田組顧問、相馬半治(明治製糖社長)が入会した(他に今村繁三、増田義一が入会している)。 『東京クラブ50年』では、この宮岡、田原、三神、朝吹、相馬の5人を加え、創立会員を29人とする。英文『歴史』では、大正10年(1921)7月13日の理事会において、三神を除いた4人を創立会員にしたとして、28人を創立会員とする。これをうけた『わがクラブの歴史』もそうである。 |
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