米山梅吉記念館は日本のロータリーの創始者 米山梅吉の遺品等を展示しています

奉仕の人 米山梅吉 〜その生い立ちと人となり〜

「35年記念誌 井口賢明『超我の人 米山梅吉の跫音』より」

  【 目 次 】

1. 生い立ち
2. 渡  米
3. 三井銀行時代
4. 三井信託銀行時代
5. 三井報恩会
 〈医療、福祉関係〉
 〈農村振興事業〉
 〈学術研究、
     実験助成〉
6. 米山梅吉の教育奉仕
 〈青山学院〉
 〈立教大学〉
 〈郷里長泉村(町)〉


1. 生い立ち

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鮎 壺 の 滝
 静岡県は三島の西、長泉村(現在駿東郡長泉町)に幼時を過ごし、長じて、三井銀行に身を投じ、常務取締役、三井信託初代社長、退いて三井報恩会の理事長として全国に奉仕活動を続けた。外に大正9年、日本にはじめて東京ロータリークラブを創設し初代会長、更に青山学院の初等教育に終身献身した。その人、名は米山梅吉と言う。
 この人、一方では漢詩、和歌、俳句もよくした文人で、藍壷(あいつぼ)と雅号した。幼児よりよく遊んだ黄瀬川にかかる滝、藍壷(鮎壷とも言う)にちなんでつけられたという。
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高 取 城


映雪舎のあった現在の普向寺

映雪舎の由来
 米山梅吉は東京芝田村町に明治元年(1868)に生まれた。父は大和国高取の藩士和田竹造、母は静岡三嶋大社の神官日比谷右京の娘うた、その三男である。生時、和田姓、梅吉4歳の時(満年齢 以下同じ)、父竹造死去、止むなく母の郷里三島に母とともに移り住んだ。梅吉は幼時から神童といわれた英才であった。郷里の納米里という処に「映雪舎」という塾のような小学校があった。梅吉は7歳の時、そこに入学した。兄の和田栄次郎がそこで教師をしていたからである。

 梅吉11歳の時、納米里の隣部落、上土狩の米山家がこの出来のよい少年に眼をつけて養子にと望んだ。この米山家は旧今川時代から北條時代を経て四百年も続いた旧家、名主の家で、当時の当主は十三代藤三郎、夫人はさく、春子[戸籍上 はる]という一人娘(明治7年生)がいた。後の米山夫人である。映雪舎を終えた梅吉は明治14年(1881)沼津中学に入学した。毎日2里(8km)の道を長泉から歩いて通った。この学校は私学で、今の県立沼津東高の前身である旧制沼津中学ではない。前身を沼津兵学校といい、今も沼津駅前には、兵学校跡の記念碑が建っている。徳川慶喜が大政を奉還して駿府に隠棲した時、多数の幕臣がそれにつれて移り住んだ。その子弟の教育のために造られた学校である。

沼津兵学校の碑(沼津駅前)


『幕末西洋文化と沼津兵学校』(記念館蔵)


江原素六銅像


沼津市明治史料館
 明治政府となったものの、指導層はご存知薩長土佐支配の壮士あがり、時の官吏とも言うべき中間層は払底していた。

 昭和9年に発行された米山梅吉著『幕末西洋文化と沼津兵学校』によると、この時代にこの学校の果した役割について説かれていて興味深い。勝海舟、韮山の江川太郎左衛門らの影響をうけ、西洋文化、蘭学、英語等に力を入れ、明治時代の近代化に視点をおいて子弟を教育した。兵学校初代校長は西周である。この人は島根県の生まれ、初め儒学を学び、のち蘭学を志しオランダに留学した。明治3年、兵部省出仕、山県有朋らと日本陸軍の基礎をつくり、兵法と共に哲学者、日本近代哲学の父と言われる人である。
 この兵学校は明治3年に西周が政府の徴命で東京に移り閉校するのだが、その跡地に、後身として出来だのが沼津中学である。

 米山はこの沼津中学に明治14年、13歳で入学した。校長は、又大物、江原素六であった。米山は生涯よき師に恵まれたが、その第一の師ともいうべき人である。天保13年(1842)生まれの明治、大正の教育家、幕臣である。明治11年(1878)、受洗、キリスト教系の東洋英和、麻布中学(現麻布学園)等を創立し、終生校長だった。
 江原は後衆議院議員など政界に身を投じた。江原の詳細な資料は今、沼津市明治史料館(江原素六翁記念館)で見ることができる。教頭には又有名な名和謙次がいた。

 これらの師の影響で、米山の文藻は更に啓発された。米山は弁論を好んだり、自分で雑誌など作って回覧した。それでもあきたらず、東京で発行されていた『頴才新誌』というのに投書までしたという。のち米山はこのことに触れて「夏目金之助というのと僕のが一番よく出たよ。それで名を覚えていたが、これがその後の漱石たった。」といった。この間、生涯の友、稲村真里という親友を得たことも大きかった。

沼津新聞(沼津市明治資料館蔵)(左)
米山梅吉の投稿部分(右)



沼津新聞 広告(沼津市明治資料館蔵)


右端が稲村真理
(中央が米山梅吉、右が桂三、左が駿二、東一郎)

 自由で楽しく多感なこの少年時代、この頃 は国会開設の時代で、板垣退助などが沼津に 演説に来ている。静岡に『東海暁鐘新報』という新聞があって、主筆は土居光華、この影響もあって、のち米山は東京に出奔し、この人の所に草鞋を脱ぐ。いくら旧家とはいえ、地元の婿、若旦那として暮らすことは忍び難く、友人稲村らと相図り、中学卒業をまたずに単独で上京、郷里を出奔するのである。明治16年12月、米山、15歳の時である。家の者は驚いて捜したらしいが、稲村は知っていた。梅吉は丸3日歩いて箱根を越えて横浜につき汽車で上京した。新橋、横浜間しか汽車のない時だった。ただちにこの汽車に乗って上京したかは分からない。

 米山は土居光華の門に入り、銀座江南学校に通いはじめた。金もなく随分苦しんだらしい。この学校は沼津中学以下の塾のごときもので、学びたいものはもっと新しい学問だった。しかし、米山はここで彼の生涯の恩人となる友人、藤田四郎を得た。この人は、井上馨候の女婿でこの縁でのち三井銀行に入ることになる。

 明治18年頃、梅吉は東京府吏員採用試験を受けて合格した。 17才、これにより渡米の資金を溜める意図であったが、いくらか経済に余力を得たので、母を三島から呼び、束の間の同居、親孝行をしている。しかし、渡米の夢は絶ちがたく、青山の東京英和学校に入学、同時に米人二コール・バックに就き英語を学び、明治20年に銀座の福音会英語学校に入学した。この年、梅吉は正式に米山家に入籍、米山姓を名乗り年末渡米した。20歳であった。

2. 渡 米

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本多庸一
(『本多庸一先生遺稿』青山学院編纂より)


ウェスレアン大学
(静岡新聞・静岡放送提供)


シラキュース大学
(静岡新聞・静岡放送提供)
 渡米した米山は桑港福音会寄宿舎に寄寓、アメリカ生活が始まった。教養の差はかなりあったらしいが、希望に燃えた日本の若者たちがここを足場に生活していた。米国版梁山泊だったらしい。記録には、米山はキレイな顔をしていたと書かれ屡々(しばしば)歌舞伎の幸四郎 と間違えられたという。文藻も人にすぐれ、早くもここで謄写版刷りの週刊誌「蒸気船」(Steamer)を発行し始めた。
 米山はここで第二の師とも言うべき青山学院長本多庸一に出会う幸運に恵まれる。本多は、たまたま渡米、福音会に逗留中であった。
 本多庸一(嘉永元・1848−明治45・1912)、明治時代のキリスト教指導者である。陸奥弘前藩士久元の息、東北地方伝道師として東奥義塾を再興、弘前公会を創立した。政治にも転じ、青森県会議長などを経て、後青山学院長、日本メソジスト教会初代監督を務めた。

 優れた人と人が偶然出会ったのである。この稿は青山学院発行の『米山梅吉傅』によっているが、その中に佐々木邦執筆の面白い記事がある。「(米山は)殆んど先生を独占して毎晩押しかけたものと見える。或晩先生は話の合間合間に火鉢の灰に火箸で頻りに字を書いていた。普通の青年なら何かの手すさびと思って見過すのだが、米山さんは鋭い。しかし、本多先生もボンヤリしているようでナカナカ油断のならない人だ。米山さんがそれとなく灰の上の字画を辿っていたら、巧遅と拙速というのだった。巧みなれども遅し、拙なれども速し、これが米山さんにはピンときた。本多先生は米山さんの性格を察して功を急がないようにそれとなく戒めたのである。米山さんも察しよく、それとなく受け入れて、これを一生の座右の銘とした。」
(※米山の著書『看雲録』に、「私は元來直情徑行の人間で、性急の癖は若かった時は猶更であったのであらう。一夜、ハリス博士の許で、食後談も盡き、室の机の上の紙に徒ら書きなどをしてゐた間に、先生はさも私の注意を惹くかの如く、「巧遅」「と「拙速」の四文字を二度も三度も書いてみせるのであった。之は後になり氣付いたことであるが、先生は私の缺點を知り抜いて、私に注意し私を訓へられたのであった。私は以來之を忘れたことはなく、事に臨む毎に思ひ出しては座右の、銘としてゐるのである。」とあります。)

 その頃の学資の途はお定まり皿洗いか学僕だ。米山もこれらをこなして、加州のベルモンド・アカデミー、これは大学に入る準備の高等学校、ここは手軽く終えて、オハイオのウエスレアン大学に進んだ。福音会ハリス監督の推薦だった。監督たちは、米山が神学に進むものと思っていたようだ。だが、米山は理解者ではあったが、生涯信仰の道に入らなかったように、ここでも政治、文学等一般科目に終始したようである。米山はその後ニューヨークのシラキュース大学に転じた。どちらに何年いたか分からないが、オハイオからマスター・オブ・アーツの称号を得ている。

 渡米8年、米山は帰国した。アメリカの知識を持ち乍ら堂々たる日本の紳士として帰ってきた。ハイカラで身だしなみよく、礼儀正しく養家との疎音も復活した。明治28(1895) 27歳。養家の一人娘春子も青山女学院高等科 を終わっていた。この学校はこの年、青山学院と改称している。

3. 三井銀行時代

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『提督彼理』勝海舟の題字(記念館蔵)


 米山がはじめからなりたかった職業は新聞記者たった。帰国時は日清戦争の終わった年、下関条約、三国干渉と国論が沸騰していた時、就職もあちこち駆け回ったようだが、生活の安定という点では納得できなかった。
 米山は帰国時、1冊の自著原稿を携えてきた。『提督彼理(ペルリ)』である。嘉永6年(1853)、黒船4隻を率いて浦賀にやってきたアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーのことである。この書はペリーが帰国後政府に復命した資料をもとに、日本人としてアメリカを書いたユニークな著書である。
 米山はこの本を博文館の大橋新太郎のところに持ち込んだ。大橋は快くその出版を引き受け、以後交友は生涯続いた。かなり売れた本であった。
 米山は更にこの原稿を勝海舟のところに持ち込んだ。海舟は明治32年没、晩年には赤坂氷川町に自適していた。海舟はこれを見て喜び、「初雷発東隅・丙午仲夏」と題字を書いた。日本の東方より雷鳴のような本が出たというくらいの意か。更にこの書に藤田四郎も序を寄せている。
 米山は明治29年のこの年米山はると結婚した。28歳であった。この頃米山は旧友(海野力太郎)の世話で日本鉄道会社に入社していた。結婚の翌年には長女愛子(戸籍上 愛)も生まれた。鉄道の仕事は技術畑が強く長居すべきではないと考えた米山は、畏友藤田四郎を訪れて相談した。藤田の岳父は井上馨候、伊藤博文、山県有朋と並んで長州の三尊と言われた人で財界の雄、この人の口添えで三井銀行に入行した。良き師良き友良き運に恵まれた廻り合せというべきだろう。明治30年のことである。
 入行してからの米山はトントン拍子に出世した。
 大御所の口利き、アメリカの大学卒、演説は上手、英語は自在、男前とすべてが整っていた。入行1年で早くも神戸支店次席である。同時に欧米銀行業務視察の出張命令が来た。
 こんな順調な米山に又一つうれしい悩みごとがおこった。勝海舟の口添えである内閣成立時の某大の秘書官に任命するから直ぐ上京せよ、というのであった。普通ならひとたまりもなかったろうが、米山は考えた末この話を辞退した。親友藤田四郎の知遇に応えたということである。この辺にも米山の恩義を重んずる姿勢がみられ、後の大をなした原因であろうと思われる。




明治36年5月支店長会
(『三井銀行八十年史』より)



明治・大正時代の三井銀行本店
(『三井銀行八十年史』より)
 欧米出張は約1年、同行は池田成彬、丹幸馬、アメリカ、ロンドンと巡回、実習調査を行った。この調査報告書は今にいたるまで、単に三井銀行に止まらず他でも参考にしているものだそうである。
 明治33年大阪支店、35年同支店次席、同年7月大津支店長に転じている。大津時代は比較的閑だったようで、著書『銀行行餘録』に載っている「近江八景」というのを見ると、今までの八景は名実相ともなわず変更した方が良いなどといささか理屈っぽいことを言っ ている。粟津の晴嵐以下四つを止めて彦根の古城外を入れる。堅田の落雁は時雨の方が良いとか、こんな余裕も面白い。一服の清涼剤である。
 米山は明治37年に横浜支店長、更に40年には大阪支店長に就任している。明治42年は常務取締役である。正に順風満帆と言うべきか。
 米山という人は生涯人のために尽くすことを信条として実行した人である。自分がして貰いたくないことを人にしてはいけないと常に言っていた。米山の歌に
    『その中を富める貧しきへだてつつ
            流るる水の浅かれとこそ』

というのがある。この歌は銀行家というより思想家の考えである。晩年の春子未亡人は「主人はお金を使うことが下手な人でした。」と度々言ったそうである。
 世は大正に変わった。大三井の常務としてその頃の米山は日本経済界の代表者の一人と見倣されていた。
 この人生黄金時代に米山は「新隠居論」という文章を書いた。 47歳の働き盛りにである。根底には米山の奉仕論かあるのだが、西洋の形式に学べというのである。西洋の隠居は隠退することでなく、隠居して為すべき仕事を見つけだす。隠居した人は今迄職務に忙しくて出来なかったことをみつけ、何か社会公衆の為に奉仕するところがなくては人間としての義務を果たしたとは言えないと言う。つまり、人間事業に一応成功して目途がついたら後進に道を譲って報恩、社会奉仕の方法をさがしなさい、という論法である。納得は出来るが実践するとなると口で言うようにはいかない。しかし、米山は人生後半に果敢にこれを実行した。晩年であるが、三井報恩会の大仕事、大正9年(1920)の日本のロータリークラブの創立、青山学院をめぐる小学校建設、郷里長泉村への寄附などが主である。これらは追々述べるとして、先ずその前の三井信託創立について触れる。

4. 三井信託社長時代


三井信託社長時代
(『三井信託銀行60年のあゆみ』より)


團 琢磨
(『三井信託銀行60年のあゆみ』より)
 米山は大正12年(1923)に三井銀行常務取締役を辞し取締役となった。 55歳、この年関東大震災があった。そのための帝都復興院の参与となった。一方、三井信託株式会社の創立準備に没頭した。
 信託という考えは明治の終わりからあり、小規模のものは既にあったが、大正12年政府が信託法を施行して姿をあらわした。信託法というのは難しいが、委託者が受託者に財産権を移転し、受託者はその財産権を一定の目的に従い自己の名で、しかし自己の財産と区別して管理又は処分し、その利益を受託者に帰属させるか又は公共事業を営むかすること(トラスト)を決めた法である。米山の言い分はこうである。銀行は金を預かって金利を払い、その金を更に高い金利で貸付ける、それでなければ商売にならない。信託業はあらゆる財産権を預かり、安全に保管して料金を受ける。同じく営利を目的としても、信託業は預けた人のために預かったものを管理運営して利益を還元するのだから奉仕(サービス) だ。こう言うのである。
 三井信託株式会社は大正13年3月創立され、米山は初代取締役社長に就任した。これから66歳までの老熟した財界活動が行われた。自分では「新隠居論」に則った奉仕だと思っていたのだろう。
 三井信託の10年間の業務を終えて、米山は昭和9年財団法人三井報恩会の理事長に就任した。本格的な「新隠居論」の実践発足である。三井信託を辞めるのは昭和9年だが、その前々年は日本は満州事変に突入し、軍部、右翼が勢力を強めており、政財界の要人が次々暗殺されていた時代であった。
 即ち、昭和7年の2月に井上準之助か、3月には團琢磨が、5月には犬養首相が暗殺(五・一五事件)されていた。国際連盟では松岡代表が脱退通告を出していた。こんな時、米山に最もこたえたのは三井の大先輩、尊敬指示を仰いでいた團の暗殺であった。三井報恩会理事長就任はそのような空しさの中から、余生を奉仕におくるぎりぎりの選択であったと思われる。

5.三井報恩会時代


三井報恩会時代
 この会が創立されたのは昭和9年である。この年、米山は三井信託株式会社社長を辞任して会長となり、三井銀行取締役も辞任している。
 三井報恩会とは財閥の三井一族が当時の金で3000万円を出資し、社会、文化諸事業に貢献する目的で設立された会である。その当時のこの金額が今どのくらいの評価か知るべくもないが、人は言う、300億円以上かと。いずれにしても広範な仕事である。
 この会の初代理事長に米山梅吉が就任した。既に「新隠居論」を書き、一旦名を遂げた男子はすべからく後進に道を譲り、以後は社会の奉仕事業に貢献すべしという米山の信条の実践である。法人であり、理事長の米山がすべてを行動できる筈もないが、事業の決定、運営については殆んど米山に任せきっていたようである。広範な事業をすべて紹介しきれないが、主なものを列記していこう。

  <医療、福祉関係>
 ハンセン病(癩)、癌、結核等への助成が光っている。ハンセン病について言うと、米山は昭和15年から17年にかけて、青森から沖縄まで当時の療養所すべてを訪れている。自ら調達した見舞品を持っていったと言う。ハンセン病が世に理解されたのはここ2、3年である。当時は最も恐れられ嫌われた伝染病と言われていた。この米山の信念と勇気ある行動は今も語り継がれている。
 癌も同様、この法人はベルギーから100万円でラジウムを買いつけて関係団体に寄附している。もう一つの当時の最大の伝染病、結核についてはその中でも最も意をつくした。米山は当時の殆んどの結核療養所を訪問し、高額の寄附、茨城県村松晴嵐荘への全額寄附などを行っている。又歴史的なことになってしまったが、結核の治療薬セファランチンの研究にと結核予防会へ寄附を行っている。この外、全国の済生会病院、精神病院、又当時漸く設立の機運が起ってきた国民健康保険制度についても若干の同類組合、埼玉県越谷市外5県12組合等を組織運営させ、その結果を俟って法制化を促進する実験などがある。国民皆保険制度はこの後、昭和13年に法制化されて現在に及んでいる。福祉関係は項目だけ挙げておく。児童保護の愛育研究所、託児所、育児院、産院を含め291ヶ所の補助、虚弱児、被虐待児、精薄児、精神異常児等の保護施設34ヶ所、養老院新設、拡充33ヶ所、母子ホーム39ヶ所、司法保護研究所などである。

西平内村記念碑(左)   裏面(右)


台座に記された由来


三ッ井文庫 石川理紀之助に関する資料保存の
ため三井報恩会により建てられた書庫の部分


三井文庫 正面
<農村振興事業>
 農村更生協会、工業協会、東北更新会、農村工業品販売所、農漁村文化協会健全娯楽助成など多岐にわたる。その中、昭和10、11年豪州及ニュージーランドより緬羊約6000頭を輸入、東北6県の農家へ貸付飼育の仕事は重要な役割を果たした。農村振興事業の中の特筆すべきものに、青森県東津軽郡西平内村や岩手県彦部村等の事業がある。疲弊した農家を復興させ、西平内村には米山揮毫の記念碑が今も建っている。

<学術研究、実験助成>
 全国の大学、研究団体助成も多くのその記録が残っている。膨大でいちいち挙げられないが、理研仁科芳雄の元素の人工転換と放射能研究、阪大の赤外線研究等をはじめ35件に及んでいる。一寸目につくものに、富士山頂気象観測所存続のための経費助成や明治の二宮尊徳に比せられる篤農家、石川理紀之助の農道要点の編集出版などもある。この報恩会の事業は約10年つづき、19年に10周年記念式典を行い、米山理事長は辞任した。米山は10周年記念式典には病気のため出席できなかった。

 米山の偉かったことは単に金を出しただけで終らず、必ず自ら現地に赴いたことである。その際には必ず自弁で土産物を携えたという。いかに援助とはいえ当時のこと、労働運動が各地で芽生え資本主義と対立していた中での、財閥三井家の援助である。しかし、この間米山の姿勢は一貫して施しの姿勢は全くなく、金はお出しするから皆さん頑張れと励まし続けたとのことである。大変ねばり強く、地方の実情、ニーズに良く対応し、愛と奉仕の精神に裏付けられた行動と言うことが出来よう。

6. 米山梅吉の奉仕教育


青山学院緑岡初等学校


青山学院緑岡幼稚園 中央が園長 米山春子


落合楼正面


子供らを落合楼に見舞う
(『人物寫員集米山梅吉翁』より)

 米山の教育関係への奉仕は 一に青山学院、二に郷里長泉村(町)、三に立教大学に対してのものが主である。

<青山学院>
 米山の青山学院への奉仕は大正5年頃には既に見られるが、その根拠は既述もしたが、恩師本多庸一、小方仙之助への報恩にあったと見てもよい。米山は青年時東京英和学校で学び、渡米して福音会で本多庸一に学びハリス監督の指導を受け、メソジスト教会とは特別の間柄であった。又春子夫人は東洋英和、青山学院高等科卒の生粋の青山出身校友でもあったからである。
 当時青山学院は高木壬太郎院長、その下で大拡張計画を企画中であった。交友に勝田銀次郎かおり熱心な協力者、その知友であった米山が協調、しかも乞われて米山はこの拡張募金委員会の委員長に就任した。この結果出来たのが勝田館、専門部校舎等であった。大正10年、高木院長死去、その後任は石坂正信院長、この人と米山は特に昵懇だったので、協力は更に緊密となり、その際の寄附行為改定に際しては米山は理事に就任した。
 大正12年の関東大地震はこの学院にも大被害をもたらした。米山はこれより先に故長男東一郎の記念にと柔剣道場を寄附していたが、この建物だけは倒壊を免れ、ここが復興の拠点となった。米山理事の協力などで、学院はめざましい復興発展をとげた。
 昭和7年、学院は創立50周年を迎えた。これを契機に石坂院長が勇退した。この際長年の功労に報いるため、学校が石坂に贈った世田谷区駒沢の住宅付土地(4))は米山の寄贈によるものであった。
 三井の重役さんだから、米山さんはそんな寄附ができたのだと人は言う。しかし、米山の偉いところはそれだけにとどまらなかったところであり、この協力は米山の教育論に裏付けられていた。米山は大学としての整備拡充よりも大切なことは、初等教育の充実だと考えていた。
 その実践が青山学院初等科の創立であった。校舎は昭和12年に竣工したが、これは米山が全額私財を投入したもので、外からの寄附は一切仰がなかった。

 はじめは学院が直営で経営する予定だったが、許可が難航したので止むなく青山学院小学財団を設立、同財団立「緑岡小学校」として発足した。昭和12年4月、男女各25名計50名が入学した。初代校長は米山梅吉で、その時の経営方針が残っている。今のようなPTAなど一切必要としない独断とも言える自信と決意にあふれたものであった。少し長いが紹介する。

@小学校の費用は完成するまで全部支出する。従って学校後援会、保護者会等の後援団体を認めない。
A児童の教育は学校の手によって行う。父兄は学校を信じて委されたい。
B教師と父兄との関係は児童教育以外に出ないこと。
C中途入学は許可しない。優秀児を選ぶこと。
D言語・服装・容儀を正しくすること。
E人に迷惑をかけるな、人にされて嬉しかったことを人にもせよ。
F誠実を第一として虚偽、偽善を嫌う。

 少し異論があるかも知れない。方針か校訓か。エリート教育の私学だから出来ることかも知れない。しかし今、少し学校で教師に注意されると子供が抵抗し、親が血相変えて学校にかけこんでくるような教育が作った現状に対していささか警鐘になるかも知れない。
 米山はこれにもあきたらず幼児教育に情熱を燃やし、小学校附属として緑岡幼稚園を開園、建設費はこれまた米山が一切担当した。園長には春子夫人が設立者の名目で就任した。園舎は院内のハリス館を整備使用した。2階建洋館階下60坪がこれにあてられた。宗教教育を第一に、英語を第二とし、平和を愛す国際的な人間を育てることを主眼にした。
 戦争のため の犠牲はこの学校とて例外ではなかった。昭和19年8月、児童殆どの200名は伊豆湯ヶ島の落合楼に集団疎開した。米山はこの頃長泉別邸で病を養っていたが、病躯をおしてこの子らを見舞ったという。更に戦局はここも安全ではなく、翌20年6月には青森県弘前市に再疎開した。青山の学校は昭和20年5月の空襲で、校舎全器材共焼失した。
 この学校は敗戦と共に昭和21年青山学院に引きつがれ、青山学院初等部として再興、今に及んでいる。

立教大学心理学実験室

往時の米山文庫(左)
米山文庫の由来 (長泉小学校内)(右)


長泉小学校の子供らの奉仕
(長泉町提供)
<立教大学>
 米山の次男・駿二は大正15年6月、21歳で他界した。父親譲りの芸術的特性をうけて画家白瀧幾之助に師事し絵画の道を歩んでいた。白瀧の画いた米山梅吉肖像画が残っている。 駿二その時立教大学に在学中であった。先に長男東一郎を失い、又次男に先立たれた米山の苦衷いかばかりだったか、米山は駿二死後7年、次男の母校立教大学に心理学実験室一棟を寄贈した。

<郷里長泉村(町)>
 三井を中心とする米山の活動は東京青山邸を核として行われていたが、長泉村には尚本邸、別邸が残っており、米山の郷里への思いは消ゆることはなかった。米山は昭和6年、同村小学校に図書館を寄贈した。この建物は赤瓦屋根の鉄筋づくりで、蔵書約1000冊もすべて米山の寄附であった。村はこれを「米山文庫」と名付け、村が管理、学童のみならず、村民も利用していたと言う。 その後、学校の整備拡大によってこの建物は取り壊された。蔵書は村が管理していたが、年を経るにつれて散逸されて、今はその一部が米山記念館に移管されている。
 現在も米山梅吉という名は町の生んだ象徴的な尊名であり、町の「いずみ公園」には米山翁立像と記念碑が建っている。毎年春には、この町は「米山デー」を制定し、何がしかの事業を行っているが、現在も米山記念館へは町内の学童生徒がボランティア活動として清掃に訪れている。平成7年の米山記念館春の例祭には長泉北中の皆さんによる「オペレッタ米山梅吉物語」が上演されたことも記憶に新しい。


米山梅吉記念館 〒411-0941 静岡県駿東郡長泉町上土狩346-1 TEL.055-986-2946 FAX.055-989-5101
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