【 目 次 】 1.米山梅吉と福島喜三次の出会い 2.東京ロ―タリ―クラブの設立 3.東京ロータリークラブ会長時代と大震災後の意識変革 4.英米訪問実業団 5.スペシャルコミッショナー、理事 6.地区ガバナー 7.ロータリーの拡大 8.米山梅吉とポール・ハリスおよび その来日 9.米山梅吉の会合での発言 10.時流のなかで 11.戦前の日本ロータリーの終焉 |
【写真】関東大震災の被害の状況
(『日本の100年』日経ナショナルジオグラフィツク社より)
【写真】(『日本の100年』日経ナショナルジオグラフィツク社より)
英米訪問実業団出発の新聞記事
(大正11年10月16日付東京朝日新聞
米山自身、歌集『八十七日』の歌日記の冒頭に「這回〔今回〕は余には公私の事情長き旅行に上がりがたき理由ありて、その選を免れむと希望したるも、せめては米国のみにてもとの勧告に従ひて」参加したということを書いている。このとき、米山は、東京クラブの会長であった。その会長の時期、月1回の例会とはいえ、3ヶ月にもわたって留守にすることになる。
折しも、ワシントンで、軍縮会議が行われ、その全権委員に加藤友三郎、徳川家達外が任命されるなどし、その一行とも同じ船で渡米することとなった。このため、この訪問団の目的がワシントン軍縮会議の応援団的なものでもあったなどと取りざたされた。そうでもあったのだろう。しかし、形のうえの目的は。
「英米先進國の経済界、殊に欧州大戦後の最も変化のある時代の経済組織を研究するとともに、英米実業家と肝胆相照し、若し両者に誤解あればそれを解き、共同して平和的に東洋経済界の発展に努め、さらに経済関係にとどまらず、世界平和にも貢献するであろう。」 というものであった。
一行の出発は、10月15日であったが、団長の團は、健康上の理由から、出発が遅れた。10月22日に出発し、バンクーバーに着いた後、ニューヨークに向かい、11月9日に一行と合流している。そして、団長の團が帰国したのは、翌大正11年5月7日という長期のものであった。このように、半年以上に及ぶ日程であって、一行全部が同じ日程というわけではなかった。
ところで、米山のあるいは米山についての文章をみていて、積極的に発言し、意見が述べられていることを感ずる。ロータリーの組織のなかでの発言、意見は、米山にとって、自分か創設にかかわったという自負心があるから当然である。そうでない会合、場面についてもそうである。しかも臆するところがない。人との交わりについても、年齢、立場を超えて、誰に対しても交誼を展いていく。そして、相手からも信頼を得られていく。人間が好きなのであろう。年令を経ることによる匡正ということもあるであろうが、それよりも天性のものを感ずる。この英米訪問実業団のときの記録のなかでもそれが感じられる。このミッションでは、実に多くの交歓会、懇親会が行なわれた。そのなかで、このときは、米山が演説をしたという箇所が目につく。また、野口英世を訪ねだり、テオドール・ルーズベルト夫人を訪問したりなどである。この団での米山の働きは、大きかった筈である。健康を害していたのに、無理に団長を引き受けた團への心遣いもあったであろう。
【写真】ホテル・アスターでの日本協会晩螢会(『團琢磨傅』上巻より)
【写真】歌集『八十七日』
ホワイトハウス前(『團琢磨傅』上巻より)
後に三井銀行の社長となった佐藤喜一郎は、大正9年暮れからその開設準備のため、ニューヨークに滞在していた。米山が秘書を連れていなかったことから、米山のニューヨーク滞在中は、佐藤ら現地滞在者が米山の世話をしていた。そのときのこと、佐藤は、「私は米山さんから紐育RCを訪問したいから案内せよとの命を受けた。ところが当時私はロータリーについては何も知らなかったので、紐育RCの所在も判らず米山さんが例会に出席されるのではなくクラブを訪問しようとされたことも当時の私には判らなかった。……やっと電話帳その他でRCの所在をつきとめ、・……相当立派な紐育RCの本部を訪問した。アメリカ人のこと
だから非常に気嫌よく迎えてくれたが、どれもこれもワイシャツ一つで腕まくりをし葉巻をくわえている。……この訪問は、すくなからず米山さんを失望させたようでその後10日以上の紐育滞在中1度も例会に出ようとはいわれなかった。」というような話をしている。米山は、ニューヨークのロータリークラブというから、自分と同じように、もっと高いものを頭に描いていたことであろう。そうはいっても、米山は、この旅行から帰ってきた後の東京クラブの例会で、好印象の話をしている。
また、米山は、行きに11月4日シカゴ着、8日に出発するまで、中3日間、シカゴに滞在した。帰りは12月16日にシカゴに立ち寄っているが、多分行きのとき、ロータリーの本部を訪ねている。ポール・ハリスに会いたかったのであろうが、会えず、事務総長のチェスリー・ペリーに会った。そこで、ペリーから、ロータリーの純金製のバッジを贈られた。
米山は、帰国後の大正11年1月25日の東京クラブの例会で、「米国の行った先々のロータリークラブや会員から、温かい、熱烈な歓迎をうけた。とりわけ、Chesley Perry事務総長をはじめロータリー本部事務局のメンバーやシカゴロータリークラブの会員には格別な歓待をうけた。」ことを話した。
そして、米山は、「Ches」によって贈られた純金製のRotaryバッジが気に入ったようで、これをみんなに披露した。そして、東京クラブでもこういうものを作ろうと提案したであろう。すぐ、外国からのお客さんに贈るバッジを作ることがきめられた。最初にできたものは、滑らかなエッジの丸い銀製のもので、歯とスポークの間を七宝でちりばめたものであった。もう一つ、会員からの要望で、車輪の歯の部分が突出して銀色に輝くタイプのものが作られた。東京クラブは、数年間、これらを外国からの訪問客に贈っていた。
一方、先のようにこの一行のなかに星野行則がいた。星野は、英国、フランスに渡り、この訪問団がパリで解団した大正11年2月5日まで一行と同じ行程をたどった。
【写真】『八十七日』の11月4日の部分(『八十七日』より)
【写真】「信託の話」のラジオ番組 (大正15年4月17日付東京朝日新聞)
米山は、翌年2月には、信託協会の会長になった。そうして、信託協会が社団法人となるととともに、その会長に就任した。大正15年4月17日には、愛宕山の東京放送局から信託の話のラジオ放送をしている。日本のラジオ放送は、大正14年3月22日からで、はじまってまだ1年少々のころのことである。
日本への信託業の導入が一段落して、米山は、大正14年春、夫人春子、次男駿二、三男桂三を伴って、支那、満州、朝鮮に旅行した。
〈国際ロータリーの理事〉
米山は、大正15年6月の米国、デンバーの国際大会で、国際ロータリーの理事に選任され、その7月から就任した。この当時、日本には、東京、大阪、神戸、名古屋、京都の5つのクラブしかなかった。アジアでは、初めての国際ロータリーの理事であった。
当時、世界のロータリークラブの数は、37の国と地域で、2396前後のクラブ数であるのに 日本には、上記の5つである。いかに国際ロータリー本部において、米山の印象が強かったかである。と同時に、日本が世界のなかで、外交の面だけでなく、一般においても認知されつつあったのかもしれない。
それにしても、当時の理事会の審理、議決はどのようにしていたのであろうか。米山はこの理事の間、米国に行った形跡がない。書面による審理、議決で行われていたのであろうか。
この時期、米山にとっては、切ない時期であった。大正10年1月に長男東一郎を亡くした後、大正15年6月4日、次男駿二を亡くしている。長男が20才の時、次男は21才であった。暗い気持ちであったに違いない。米山58才である。
米山が国際ロータリーの理事となって、スペシャルコミッショナーは、大正15年7月から第2代の井坂孝が就任する。井坂は、大正11年12月からの東京クラブの会員で、大正14年4月から大正15年3月まで東京クラブの会長を務めた。横浜ロータリークラブ設立の際には、特別代表であった。第3代は、大阪クラブの平生釟三郎である。平生は、後の昭和11年3月、広田弘毅内閣の文部大臣を務める。
<第2回太平洋地域ロータリー大会>
昭和元年5月、第1回の太平洋地域ロータリー大会がホノルルで開かれた。参加は、8ケ国で、433名の出席であった。日本では、このとき、東京、大阪、神戸、名古屋、京都の5つのクラブであった。1年も前に招待状が来ていた。東京クラブでは、on-to-honoluluという委員会まで作って参加を勧誘したが、出席しようという会員がなかったという。その年6月、アメリカ、デンバーの国際大会に出席予定であった東京クラブの水嶼峻一郎を東京クラブだけでなく全クラブの代表とすることとした。
【写真】太平洋地域ロータリー大会
【写真】太平洋地域ロータリー大会
(RI会長トム・サットン夫妻を囲んで)