日本でのロータリークラブの数がふえてくると、ロータリーの日本化ということがいわれるようになった。日本化ということが適切な表現化どうかわからない。しかし、その議論されたものについて、米山の意見や行動をたどってみる。
ただ、これも純粋に日本のロータリーをどのようにすべきかということとは別に、当時の時代背景の中で、如何に日本のロータリーを維持するかといういわば合目的な議論とからんで、ことを複雑にしている。すなわち、純粋にロータリーをどうするのかの考えと同時に、強くなりつつあったロータリーに対する軍部などの圧力の回避との関連である。このようなことから、ことの本質を見にくくしている。残念であるが、多くが後者との関連で進められてきた。
<日本語訳>
早いころから、ロータリーの文献、資料の翻訳が話題に上がるようになった。これなどは、日本化というより、どのように日本語訳をするかである。
米山は、要はみんな英語が出来る人なのだから、無理に日本語訳することはないではないかという考えであった。東京クラブではもちろんそうであったろうし、横浜クラブなどは、昭和2年の創立であるが、例会も、会報も皆英語であったという。
しかし、ロータリーの拡大にともない、クラブの数もふえ、会員の数も増えてくるとそうとばかりいっていられなくなった。それ以上に、会員の家族もロータリーの会合に参加することもあるし、一般に対してもロータリーを押し広めなければならない。そんなことで、会員から、諸資料、定款、細則などの日本語訳の要請は強く、地区大会や地区協議会などで、このようなことが議題となったり、要望として、毎回声が上がったいた。
そんなことから、米山は、翻訳の必要、日本語化の必要を認めるようになった。
第1回地区年次大会(昭04.04)では、「翻訳も種々試みてみた。東京に委員を置いて、他クラブの同意を求めることにしたのである。とにかく難しい。第一サーヴヰスという言葉これが實に難しい。だから英語のままの方がよいと思われる。」というようなことであった。
第7回地区大会(昭10.05)では、「いろいろいうけれど、今ほとんど日本語でやっている、ある専門的な言葉が翻訳できないでそのまま使っているだけである。なまじ翻訳すると、かえって混乱が生ずる。そのまま使っても、そのことで日本の精神がそこなわれるわけでもない。とにかく急がないで、良い翻訳を探すようにしよう。」という。
第8回地区大会(昭11.05)でも、日本語訳するのはいいが、この翻訳が難しい、いい方法がないか、委員会でも作り、むしろ部外者例えば英語学者で、宗教、哲学、文学的素養のある人にやってもらえったら、などのこともいう。
今のSAAなど、あとあとまでもサージェント・アット・アームスといっていた。ガバナーを監督とするということは、ある程度早くからいわれていた。それが昭和14年8月の地区協議会の記事では、総監督となっていた。なにか違和感を覚える。
このように純粋にロータリーのためにロータリーをどうするかとは別に、時代が下って、英語は敵性後でえあるなどという風潮が高まってくる、そんなことから無理矢理日本語にしようとする。こんなことが今ロータリーの日本化という言葉を見ていていやな思いを抱かせる。
<大連宣言>
大連宣言というのは、大連クラブの古沢丈作の草案になる以下のようなものである、大連クラブでは、これをクラブの「ロータリー宣言」として使っていた。
第1 須らく事業の人たるに先立ちて道義の人たるべし。蓋し事業の経営に全力を
傾倒するは因って世を益せんがためなり。ゆえに吾人は道義を無視していわ
ゆる事業の成功を獲んとする者に与せず。
第2 成否を曰うに先立ち退いて義務を尽さむことを思い進んで奉仕を完うせんこ
とを念う。自らを利するに先立ちて他を益せむことを願う。最も能く奉仕す
者は、最も多く満たされるべきことを吾人は疑わず。
第3 あるいは特殊の関係をもって機会を壟断しあるいは世人の潔しとせざるに乗
じて巨利を博す、これ吾人の最も忌むところなり、吾人の精神に反してその
信条をみだるは利のため義を失うよりははなはだしきは無し。
第4 義をもって集まり、信をもって結び、切磋し琢磨し相扶け相益す。これ吾人
団結の本旨なり。しかれども党をもって厚くすることなく他をもって拒むこ
となく私をもって党する者にあらざるなり。
第5 徒爾なる角逐と闘争とは世に行なわるべからず、協力もって博愛平等の理想
を実現せざるべからず、しかり吾が同志はこの大義を世界に敷かむがために
活躍す吾がロータリーの崇高なる使命ここに在り、その存在の意義またここ
に在す。
古沢丈作は、日清製油大連支店長で、終戦後東京クラブの会長をもつとめた。そのとき、古沢のイニシアチブで米山ファンドができた。
古沢は、ロータリーの綱領とロータリー倫理訓を毎日音読し、ついにその本位を会得し、それを自らの言葉で文章を作った。これは、格調高い日本語による適格な表現で、高い評価を受けていたという。
米山は、昭和5年4月の第1回地区大会のガバナー再選の挨拶で、この古沢の行動を「大連の古澤氏より過日誠に涙ぐましい話を承ったが、それは大連が熱心で、クラブをサーヴヰスの上におく。六の目的、十一のコードを翻譯しお經をよむやうに叉、祈るやうにしたいと言ふ希望である。實に感じ入ったのである。」とたたえている。
昭和11年5月の第8回地区大会の前夜懇談会で、神戸クラブの直木太一郎が「大連ロータリークラブのロータリー宣言は、日本文として適切にロータリーの精神をあらわしているから、これを四つの目的(綱領)に代えて、第70地区の宣言にしたい。」と提案した。
これに対し、米山の言うところは次のようである。
ロータリーという大きな組織については、これを結びつける何かが必要である。この結びつけるものが四つのオブジェクトである。これによって、すべてが結びついている。ロータリーというのは国際組織であるが、これによって、世界中のロータリーの組織が結びついている。これをロータリーの宣言といっている。この宣言の解釈はいろいろある。それはそれでよい。この四つの宣言にも議論があって、六つが四つになった。これがまた変わるかもしれない。そのような曲折を経た宣言である。いま、第70地区がこれを宣言に採用するというのは、これを混乱させ、穏やかではない。オブジェクトを離れてしまって、ナン オブジェクトにして、これが第70区の宣言であるというのは、ロータリーをこしらえたことの根本にもとることになる。エキスプラネーションということで差支えない。
すなわち米山は、「ロータリーの地方分権を否定するものではないが、ロータリーは、国際組織である。どうしても保持されなければならない何かがある。それは、ロータリーの綱領である。大連宣言を第70区(日本ロータリー)の宣言(綱領)にするというのは、これを超えてしまい、国際ロータリーの組織をはずれることになる。」というのである。
前ガバナーの村田省蔵は、「ロータリーのオブゼクトといふものは兎に角決つております、而も六つのオブゼクトが四つになりまして、昨年これが決つたのであります。然るに日本がこれは七十區だけの宣言ではありますけれども矢張りオブゼクトを五つにして、かういふやうに書いてありますと、そこに何か日本丈に起つたんぢやないかといふ邪推をされる處がありはしないか、…。私はこれを宣言として或は綱領にこれを使ふといふことはどうかと思ひます。要するにこの五つの宣言が矢張り四つのオブゼクトから出てゐるのでありますから、これをオブゼクトにまでしないで、・・・かういふことを何かオブゼクトを助ける一の材料に、さういふ様な意味に使ふといふ位ではどうでせうか ---- 敷衍ですか、そうしてそれを四オブゼクトを説明する時にかういふものをお使ひになりますとこれは日本人の頭にすぐ來ると思ひます、…かういふものが非常にいゝといふことを各クラブが御感付きになつて、さうしてこれをなるべく利用するといふ程度位で如何でせう。」と扱いは、米山の考えと同じであった。もっとも、村田は、これはよくできている、「四オブゼクトへも寧ろかういふ精神を入れたいと思ふ、ですから、出來れば日本のロータリアンがもっと研究に研究を重ねて、さうしてあの四オブゼクトを今に日本に變へるといふ處までロータリアンは充分御研究を願ひたいと思ふ。」ということもいった。しかし、記録からは、必ずしも英訳してシカゴ本部へロータリーの綱領を改正するよう提案したらどうかというニュアンスは読み取れない。
結局、この提案は、議論の末、綱領の変更ではなく、それを演義説明するものとして利用するという扱いとなった。
<地方分権>
中央集権制か地方分権制かと図式化して議論すれば、地方分権の旗色がいいに決まっている。別にそうだからというわけではないが、米山は、早くからそのような主張をしていた。
第2回の年次大会(昭05.05)で、「ロータリーは、インターナショナルな力強い運動である。その起源がアメリカであるからといって、一から十までアメリカ式にやる必要はない。日本のロータリーは、日本独自の行き方を加味してよい。」といっている。
また、ガバナー通信の昭和5年7月25日号でも、次のような所信を述べる。「自からなる愛郷心、自國の歴史に對づる傳統的の誇り、結局國家的観念より來る純粋なる熱情が充分に発動して、國際敵観念と合して崇高なる人類愛となり、然る後世界の平和を企圖致すべきは勿論に有之、各國人情風俗を異にしながら一様の動作に出づることは無理」であり必要もない。そして、日本が急な拡大方針をとらないことに、ようやく本部も理解するようになった。しかし、「吾等は此RI組織に加盟せる以上本部の國により其事情を異にすればと申す意味を餘りに自由勝手に解釋致しても相成らず、主としてRIの精神に共鳴するは勿論に候へども、此有力驚くべき組織を語る種々の規則習慣は、益大に尊重致度在候。」という。極めて、常識的で納得しうるものである。
第3回の地区大会(昭06.05)では、中央集権主義の不可なること。地方分権であれという持論を展開する。そうして、「国際ロータリーが年とともに変わっていくだろうが、自分も希望的な想像ではあるが、それを描いているところがある、いずれ発表したい。」という。このときの発言内容は、昭和6年5月23日付ガバナー通信にも記載されている。
米山は、昭和10年2月、ポール・ハリス来日の折、歓迎の挨拶をした。そのなかでも、先に見たように、富士登山にたとえて、このことをポール・ハリスやときの国際ロータリーの会長ボブ・ヒルの前で、地方分権の主張をしている。
神戸の第8回年次大会(昭11.05)の前夜懇談会において、「国際ロータリーの中央集権制を緩和して、地方分権に改めること」という議題が予定されていた。米山は、ここで突然動議として提出された大連宣言の採択の議論では、ロータリーの綱領との関係で混乱を招く、宣言というのはよくない と主張した。
この地方分権の議題では、これまで見たようにロータリーの地方分権ということを以前から唱えていて、この議論のなかでも、熱っぽく持論を展開した。ロータリーの組織がだんだん大きくなると、中央の本部とのいちいちのやりとりでは、組織を緩慢化させ、やがて硬直化させることになる。その地方、地方の特性を取り入れたものにするのでなければ、組織がもたなくなる。そして、この地方分権というのは、急にというわけではないが、やがて、きっとそうなるという。
今のロータリーは、結論的にそうなっていない。国際ロータリーは、後に述べる日本の日満連合委員会への改組のときの苦い経験から、日本が戦後、ロータリーに再加入するについて、そのような動きを固く戒めた。
日本の暗い時代ということで、日本のロータリーは崩壊したが、もしそのようなことがなく推移したとき、米山のいうことは、そのようになっていたであろうか。興味のあるところである。
ただ、この地方分権、自治組織の求めも、日本において、折から厳しくなりつつあったロータリーへの風当たりをいかに避けるかの方策とも関係してくる。
<日満ロータリー連合会>
昭和13年5月15、16日、京城で年次大会が行われた、いわゆる内地から270名の出席があった、このとき、米山は、出席することができなかった。ガバナーは、里見純吉で、会議で朝鮮総督の南次郎、懇親晩餐会では、朝鮮軍司令官の小磯國昭が挨拶をした。形式的な挨拶ではなく、講演というもので、総督のものは30分にも及ぶものであった。ロータリーの意義にも触れ、ロータリーを敵視するというより、ロータリーの趣旨に則って国のために役立てて欲しいというものであった。
もっとも、ここでの大会決議は、出征将兵への感謝電報とか出征将兵に対し慰問を為すことなど、いわば時流を映すものであった。
米山は、このような時流のなかで、このままの内容の組織では、日本のロータリーは押しつぶされると感知したことであろう。この年8月6日、新しいガバナー松本健次郎のもとに、比叡山で地区協議会が行われた。ここで、米山は、東京クラブとしてであるが、日本ロータリーの改組案を研究することの提案をした。そして、その研究委員会がもうけられることになった。何回かの検討が行われた。しかし、成案を得られる前に、米山は昭和13年11月、病を得て入院することになってしまった。なお、米山は、その年12月9日、貴族院議員に選ばれた。
一方、時勢としては、昭和14年6月のクリーブランドの大会で日本ロータリー改組が認められなければという逼迫したものとなっていた。本来は、地区の大会なりで承認を得てすることであろうが、そのいとまのないまま、札幌クラブの宮脇冨によりとりあえずの成案となった第70区機構改組案を国際ロータリー定款、細則による修正案提出の期限に間に合わせるため、急ぎ仮の修正案として国際ロータリー本部へ送った。そして、米山が健康を回復したときは、その了承のもとに正規の案とし、変更があれば電文で通知することとした。
國際ロータリー月報、昭和14年1月号に、このとき提案された案、すなわち改組案研究委員会の「第70區改組草案(宮脇案)概要なるものが載っている。これは、以下のような内容である。
・統轄機関
日滿ロータリーの統括機関として新たに評議委員会を設け、その評議委員会は
左記地區内の会員より選出さるる9名の評議員(地方小區代表員と呼ぶ)及び日
滿ロータリー会長と前期会長及び他の第70區の役員(副会長、幹事、会計)を
以て組織し日滿ロータリー会長は評議会々長となる。
・評議員選擧區域
上記9名の評議員は左記地域内の倶楽部会員より選出する。(一)北海道、
(二)樺太、(三)関東、東北、中部地方、(四)関西、中國、(五)四國、
(六)九州、(七)台灣、(八)朝鮮、(九)滿州
・評議員の権限
この評議員会の権限は日滿國際ロータリーの定款並に細則の定むる所により日
滿國際ロータリーの事務並びに資金を統括管掌する。
但し当該会計年度の日滿ロータリーの予算収入を超過する負債を為すを得ず。
・役員の選擧の方法
日滿ロータリーの役員は、会長、副会長、幹事、会計及び九名の地方小區ロー
タリー代表全員であって、会長は細則の規定により指名し、毎年の區大会に於
て有権代議員の投票過半数を以て選定し、他の役員は細則の定むる所により指
名の上選擧する。區大会に於て選擧されし会長の姓名は國際大会に於てRIの
役員として選擧を受くる為め中央事務局に通告する。
・定期大会と臨時大会 (省 略)
・區大会の組織 (省 略)
・代議員の出席 (省 略)
・無所属代議員 (省 略)
・日滿ロータリー執務章定
區内倶楽部の執務は評議員会の一般的監督の下に置かるゝものとし、評議会は
國際ロータリー理事会に対し義務を負ふものとす。
・定款と細則の修正 (省 略)
・会費及び使途
日滿ロータリー会員は毎半期金5円を会費として日滿ロータリー本部に納付す
る。而してその使途及び管理は評議会の権限内に対し、國際ロータリーに対し
ては毎半期双方協議の上適当と思惟さるゝ金額を支払つて種々なる斡旋に酬ひ
國際ロータリーより一切支弁を受くる事なく独立会計となる。
わかりにくい内容であるが、『ロータリー日本五十年史』には、次のように要約されている
第1 第七〇地區を日滿ロータリーと改称して自治体とする。
第2 ガバナーの名称も日滿ロータリー会長と改めわれわれが選擧して國際ロー
タリーに報告し國際ロータリーはこれを役員として認めること。
第3 日滿ロータリーの統括機関として評議員会を設ける。全國を[前記の通り]
9地區に分け地域別に選出さるる評議員および日滿ロータリー会長と前会
長、副会長、幹事、会計をもって評議員会を組織する。
第4 会長に新クラブのチャーターの付与権および分担金の徴収権を与えること。
第5 会計は國際ロータリーより独立し毎半期ごとに双方協議の上適当な金額を
國際ロータリーへ支払い種々の斡旋に報いる。
第6 RIとの折衝は日滿ロータリーが当たり國際ロータリーの精神、組織、目
的の維持に協力し一切の責に任ずる。
第7 大会は各クラブから選出される代議員で組織され(中略)る。
そんなころ、国際ロータリーの特派員である名誉副幹事のアレキス・ポタアが昭和14年3月4日から10日まで来日した。ポタアのいうのは、中央事務局へ送られた改正案は、まず実現不可能である。国家を起点とするロータリー機構(National Unitiの組織)では、認められるとは思えない。せめて、管理地域(Area administration)の自治制度、すなわち現在の第70区をいくつかに分割して、一つの管理地域というにするのであれば、見込みがあるかもしれない、という示唆であった。そして、この改組を遂行するとすれば、例えば以下のようなことであろうかという。そして、急いで着手すれば、次の世界大会で、第70区改組の目的を実現する見込みがあるだろうということでもあった。
一 現在の第七十區を三區に分割すること、假令ば北海道東北地方を第一區とし、關東、
關西、中國、四國を第二區とし、九州、滿州、朝鮮、臺灣を第三區とすること
二 その三區に分割されし倶樂部の衆團より管理地区設置の請求を提出すること(但し、
區大會の可否あるを要す)
三 改組を急速に遂行せんとすれば來る六月十二日〜十六日のホワイト・サルファー・
スプリングに開催さるゝ協議會に提出して同會の賛助をへて立法委員會に提出する
必要あり、従つて第七十區代表者を急速に中央事務局に派遣し其の豫備行動に着手
すべく、遅くとも來る五月三十日迄にその手段を採る必要あり
ガバナーは、この示唆をうけて、急ぎこれに則った内容の案を提案し直した。その案(地域統括制度)の概略は、国際ロータリー月報、昭和14年8月号に掲載されている。
このような状況下で、昭和14年4月29日、30日、別府で、第11回の年次大会が開かれた。ここで、ポタアの示唆をも容れたArea administrationの案を提案することを承認(追認)した。そして、その実現のため、シカゴの本部に人を派遣することとなった。それには、米山をおいてないということになるであろうが、なにせ、米山は、前年暮れから入院し、2月20日に聖路加病院を退院したばかりである。この大会でも、米山に対して、「初代ガバナー米山梅吉氏に對し、病気見舞の電報を發すること。」という決議までされている位である。この時期に行ってもらうことは、体力的に無理であった。
それで、自らもいっている「貧乏籤」を引いたのがガバナー事務所幹事の芝染太郎であった。芝は、悲壮な思いで、昭和14年5月11日、米国に向け旅立った。芝の心中を察するとすれば、死地に赴く荊軻の如き心情であったろうか。芝としては、また米山にしても、その接渉に成算ありとは考えていなかった。なんとか何がしかの譲歩を得たいという気持ちであったろう。米山が芝にあてた所感、赴く芝の思いが国際ロータリー月報 昭和14年5月号に載っているので、そのまま引用する。紙背に当時の切迫したものをくみ取ることができるであろう。
拝 啓
貴下には不日米國に向け御出發のこと誠に御苦勞に奉存候何卒御自愛御成功の程偏に
祈上候
小生昨冬來病気に付松本總理始めロータリアン諸契に不一方御心配相掛け恐縮の至、
是迄ヂストリクト・コンフヱレンスには毎年大概出席致來り候に今回九州の其れには遂
遂に不参加何共残念に候然るに別府御會合の席上御一同より御見舞の御電信を恭うし真
に難有感鳴仕候御陰を以て病気は己に殆ど全快仕り尚暫く静養罷在候處に有之御序に諸
契に可然御披露貴下より宣布御禮願上候
本年の國際ロータリー大會には時局下我國よりは出席者甚だ乏しきこと不得止次等然
るに其の重要性は従來の大會に對すると大に殊なる處有之我方豫ての提案を控へ各國多
數の出席者を前にして貴下が我が代表として殊に此に當られ候御任務は容易ならざるも
のあり御骨折の程拜察致候幸にして我邦ロータリーが全世界の同組織中に今や有力なる
地位を占め我方の希望主張は歴代の國際會長を始め多數の人士の諒と至候處には候へ共
兎角無事に慣れ來候RI大會並に其の附属機關にとり中々以て大問題に有之一氣呵成は
困難かとも被存候好し我方當初の提案通り通過致さずとも大精神が貫徹致候へば形式上
の多少の譲歩は止むを得ざることかとも存候要はヱリア・アドミニストレーションの意
義擴充に有之候國際主義と國家主義は何處までも兩立致すべき筈、御代讀御依頼申上候
小生の大會に對するメッセージが此間に多少御役に相立ち提案支持の一助とも相成候
はゞ仕合せ此事に存候
御出立前御多忙可被爲入當日小生は御見送りも到得間敷切に御安全なる御航海を祈上候
敬 具
昭和十四年五月六日
米 山 梅 吉
芝 幹事 殿
出立に臨んで
私は今日出征するような氣持で渡米します
目的の遂行と失敗とは必すしもこの瞬間に於ける私の關心する處ではありません、命を
かけて目的に忠實であればそれで吾が事終われりと信じます
第七十區の希望するような改組案が本年の國際ロータリー大會を通過するものとは夢に
も考へられません。然かし第七十區を自治制度に改組せねばならぬと云ふことは吾が會
員の総意であつて、是非共必ず貫徹せねばならぬ重大目的であると確信致します。夫れ
故に第七十區會員の總意とその正當なる主張と幾分たりとも世界のロータリアンへ理解
せしむる目的の一石となれば使命を空くせぬものと信じて、此度の貧乏籤を勇敢に甘受
致しました。出來得べからずと信ずることさへも喜んで且つ忠實に勤め得ることはロー
タリー精神が私に教へた感謝すべき最大の教訓であると信じて居ります。
目的の遂行も出來ず同時に相手側の感情を害するのは下の下で、成功せずとも感情を
損ぜぬのが下の中、相手側を快く納得せしめて將來に目的を遂行し得るように成し得れ
ば下の上であるかと考えて居ります。
私はこの「下の上」にまで漕ぎ付ければ別に太平洋の眞中で立往生をするにも及ぶま
いかと考へて病床に在る九十一歳の母に暇乞して只今吾が家を出發いたします。
出立に際して激勵の難有き御言葉を下さつた各ロータリー倶樂部や友人達に感激の御
挨拶を申し遺しまして
五月十一日
日滿ロータリー幹事
芝 染太郎
また、米山は、前記文章にあるように、国際ロータリーの会長、役員、理事などへのメッセージを芝に託した。芝はこのメッセージを現地のそれぞれの場面で、三度読んで、日本のロータリーの切実なるものを訴えた。この米山の文章は、聞く者の共感を得たようで、芝は、交渉に大いに役立つたといっている。
国際ロータリーの幹部も、「このまま第70区の案が国際協議会、国際大会に提出されるときは、大混乱に陥り、収拾がつかなくなる。それは得策でない。一方では、芝の必死の訴えである日本の事情も容れてやりたい。それには、正式の立法委員会、国際大会での決議という方法でなく、理事会の権限、決議のなかで処理できる方法はないか。」と、ホワイト・サルファーの国際協議会に出かけるぎりぎりまで、シカゴで理事会が続けられた。それは、地域管轄制度では、理事会の権限ではできない。委員会制度がフランスやカナダで行われている。双方の妥協点がこの辺りであった。芝は、これで妥協することとした。理事会がそのような委員会制をまとめたのは、理事、役員が国際協議会に出発しなければならない6月10日のぎりぎりの時間であった。
芝は、こうして、国際協議会の後のクリーブランドの国際大会で、日本が提案した先の改組案を撤回した。
昭和14年6月10日の国際ロータリーの理事会によって認められた委員会制の内容は次のとおりであった。(国際ロータリー月報 昭14.08)
國際ロータリー日滿聯合委員會組織(概要)
・従來の第七十區を改組し左の三區を設く
第七十區 北海道、東北及び關東(金澤、名古屋、岐阜、四日市を含む)
第七十一區 關西(四國、九州、台湾を含む)
第七十二區 滿、鮮及び關東州
・以上の三區の総括機關として國際ロータリー日滿聯合委員會を設く
會 長 一名 區監督 三名
前監督 三名 前會長 一名
合 計 八名
・委員會員の任期を壹ヶ年とす、但し再任することを得
・會長は三區聯合大會の期間中上記委員會に於て選擧す
・委員會は委員長の指定する時及び場所に於て開會す
・委員會は二名若くは二名以上の委員の請求ある時委員長召集す
・委員會の票決は委員の過半數とす
・日滿ロータリー委員會は上記三區に關する萬般の事務及び各區間の連絡、共通の會計を統制管理す
・委員會は會計及び幹事を任命す
・監督の選擧は聯合委員會を通じてRI中央事務局に通告しRI大會に於て監督はRI役員に選擧する
ものとす
・監督は區内各倶楽部の管理指導に任ずること従來のガバナーに同じ
・各區の報告類は各區監督よる聯合委員會に提出するものとす
・従來の會費年額四弗五十仙の半額即ち二弗二十五仙をRI中央事務局維持費として負擔し、残高を
委員會に保留し聯合事務費に充つ
・各區はRI定款の定むる處に據り年度毎に監督を選出す
芝は、不満のような口ぶりで、当時の心境を書いているが、内心ほっとしたであろう。そして、米山や周囲は、期待以上の結果と考え、胸をなで下ろした。米山は国際ロータリーにお礼の書信をしたためた。今、それがどのようなものであるかわからないが、先方からの手紙がある。一つは、国際ロータリー会長のヘーガーからのもの、もう一つは、第2回の地区年次大会に本部代表として出席したマルホーランドからのものである。ヘーガーからのものは記念館に陳列されている。
ベーガーからの手紙
かくて昭和14年8月26日、東京会館で、第70区協議会が行われた。各クラブから22名の日滿ロータリー連合会規約作成の起草委員が選ばれ、9月15日新しい規約ができた。第70区は三つに分かれ、新第70区は名古屋以東の東日本の20クラブ、第71区は西日本および台湾の19クラブ、そして第72区は朝鮮、満州の3クラブとなった。米山梅吉、村田省蔵、朝吹常吉、里見純吉、松本健次郎および森村市左衛門の6名がガバナー指名委員とされ、9月28日ガバナーには、第70区は東京の森村市左衛門、第71区は京都の大沢徳太郎、そして第72区は大連の貝瀬謹吾が指名された。日満ロータリー月報の昭和15年1月号に、日滿ロータリー連合会長としての米山の新年の辞がのっている。今回の改組制度について、「日本のロータリーもRIBIのような国家単位の独立組織を欲したが、フランスなどにならって、日本と満州国との連合委員会の制度を得た。これも今後さらに進歩改良すべきである。」といっている。
第1回の日滿ロータリー地区連合年次大会が昭和15年5月5日、6日、横浜で開かれた。この大会で、日滿ロータリー連合会長には米山梅吉が選ばれ、第70区の次のガバナーに横浜の平沼亮三、第71区は神戸の岡崎忠雄、第72区は京城の篠田治策が選ばれた。そして、次の大会開催地として、大阪に決定したが、その後日本が国際ロータリーを脱退したため、この大会が連合会としては最初で最後のものとなった。