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米山梅吉記念館は日本のロータリーの創始者 米山梅吉の遺品等を展示しています

【 目 次 】
1.米山梅吉と福島喜三次の出会い
2.東京ロ―タリ―クラブの設立
3.東京ロータリークラブ会長時代と大震災後の意識変革
4.英米訪問実業団
5.スペシャルコミッショナー、理事
6.地区ガバナー
7.ロータリーの拡大
8.米山梅吉とポール・ハリスおよび その来日
9.米山梅吉の会合での発言
10.時流のなかで
11.戦前の日本ロータリーの終焉

6.地区ガバナー

<地区の設置>
 米山がスペシャルコミッショナーを務めた後、井坂孝が、その後平生欽三郎が務めた。
 この時代、日本のロータリーは、Nondistricted Territoryとして各クラブは直接国際ロータリーの監督下にあった。こんなことから、当時、日本にも地区を創立するようにとの希望が強くなってきた。昭和2年10月23、24日、東京で開かれた全日本ロータリークラブ第2回連合懇親会では、日本、旧満州、朝鮮を合わせて、一つの地区を設定してもらいたとの決議がなされた。
 平生は、この方針でシカゴ本部と折衝を重ねた。国際ロータリーの事務総長は、一度はこれを内諾したが、理事会が時期尚早で認めないといってきた。平生は、強硬な姿勢で交渉にあたり、国際ロータリーもこれを認めるようになった。こうして、日本、旧満州、朝鮮を一つとして、第70区ができた。
 ただ、国際ロータリーが渋るのも無理がらぬ面があった。当時日本には、東京、大阪、神戸、名古屋、京都、横浜、それと京城の7つのクラブしかなかった。区を形成するには余りに少なかった。これで地区を認めろというのである。いかに国際ロータリーが平生の勢いに気圧わされたかである。
 ガバナーは、地区大会で選挙されるのであろうが、そんないとまはない。初代ガバナーとして米山梅吉を本部へ推薦し、形式的な各クラブの承認ということで米山がガバナーに選ばれた。
 米山のガバナーは、自身もいうように国際ロータリーの規則、考えから見れば必ずしも 優等生的なものではなかった。

<第1回地区年次大会>
 米山ガバナー1期目の大きな行事は、第2回太平洋会議である。この準備の途中で、地区ができた。米山は、主催する東京クラブの実行委員長であったが、ガバナーとしても関与することになる。この模様は、前記のとおりである。
 第1回の地区年次大会が昭和4年4月27日、28日京都で開かれた。これは、京都で第4回の連合懇親会が予定されていたところ、地区が設定されたため、急遽これを地区大会にしようとする異例のものであった。このため、これを準備する京都クラブも第4回連合懇親会のつもりで、第1回の地区大会の準備であるという意識がなかった。これに気づいたのが開会2ヶ月少し前の2月6日のことであったという。
 また、初めての地区大会ということで、分からないことだらけであった。京都の大会幹事とガバナーである米山との間で幾多の文書が往復された。例えばこんなこともあった。昭和4年4月9日の大会の始まるすぐ目前のことである。大会の名前を「第一回ロータリーヂストリクト大會」としようか「第七十區ロータリークラブ大會」としようか、英文ではどうしましょうかという問合せに、米山から「第一回ロータリー・ヂストリクト大會」と、英文では国際ロータリーヘの報告のこともあり、「First Annual Conference Seventieth District Rotary International」としたいということであった。
 このときがはじめてのことなので、米山がガバナーとしてどのようなことをいっているか、少し長くなるが記してみたい。

 ガバナーを100%勤める事は迚も期し難い事で50%も難しいと言ふ事を痛感した。ディストリクトと言ふのは地域上の區別であって大國には二以上のディストリクトがあり、目的はもともと立法的のものではない。ディストリクト内のメンバークラブの親密をはかり、惹いてはロータリーインターナショナルの親密をはかるのが目的である。ガバナーの役もここにあるので、ガバナーも亦各クラブの親善をはかりR・Iの善をはかるべきである。ガバナーは一通りメンバークラブを廻る事が義務である。サットンは既に四十五ヶ國を廻って了ったと思はれる。實に驚くべき事である。然し日本は遠いため遅れてアポイントされ、〔自分は〕その後考慮中太平洋大會の準傭に忙しくクラブ訪問が出来なかった。本年も不可能であった。然し昨年の太平洋大會は多大の利益を日本の上に持ち越した。國際的結合を大にし内外ともに好結果を収めた。社交上の一機関として家族も交り親むにはロータリー以外には無いのであって、ロータリーが日本に持ち来りし副産物の大なる収穫である。本日亦然り他に見られぬ美しき習慣である。
 ガバナーとして第一旅行もせず〔地区内クラブ訪問のことであろう〕第ニマンスリーレターを出さずR・I本部への報告も一一書くと長くなるからレターフォームにサインする位である。ディストリクトとしての費用は通信費が主なものでガバナーの金はあっても利用する事が出来なかっだのは不能のなす所である。大會以外にも會合を奨励してゐるのであるが東京横濱或は京都大阪の如き聯合にて會合を催した例がある。これは各クラブ互に知り合ってゐるからで日本に於ては大變好都合である。これはガバナーの手柄ではない。イタリーに實例のあったアドヴァイサリーコンセルを設ける必要は目下ないと思ふ。ディプティーガバナー必要論もあり、實行した事もあるがガバナーが100%のものは忙し過るからデプティ〔代理〕が代って行ふた例もある。本部はバイロウス〔細則〕の改正されるを好ない爲めバストガバナーがあるからそれと提携してゆけばよいとされてゐる。名譽ガバナーはベルギーイタリーの皇帝であるがこれは日本では畏多い。

【写真】第一回ディストリクト大会誌

大會後三十日後に報告を本部に三部送らねばならない。此會のはじめに゛Ont't over do it“と注意した。それは次に擧行すべきものが困るからで精神的には構はないが費用を考慮に入れる必要がある。京都には特に注意し、會費以外の負擔を重くしない様、程よくするやう申しておいた。だから、今明日のプログラムは到れりつくせりであるがもし不行届な點があればそれはガバナーの罪であると思って戴きたい。





 また、米山は、ここで、再度ガバナーに選任されたが、そのときの挨拶も記しておく。

 委員長の報告により再任する事になった。第一回のみで過分なるに更に再選の榮を得たるは誠に光榮の至りと恐縮して居る。恐らくその理由は習慣も整はず仕事も折衷せられず爲めに日本式ガバナーの形が出来てゐないものと思ひ、それを未だ果さず何分草々の際とても一度やれと言ふ事であらうと思はれる。最初東京クラブで二度會長を、二度スペシャルコムショナーを勤めたのであるが更にガバナーまで二度勤める事になった。資格の點に於ては至難であるも少し具體化したいと思ふ。事實100%ガバナーは世界に於ても難しいものとされてゐる、幸ひ自分で自分の罪を償ふ事が出来てから次ぎに引渡したいと思ふ。
 大連の古澤氏より過日誠に涙ぐましい話を承ったが、それは大連が熱心で、クラブをサーヴヰスの上におく。六の目的十一のコードを翻譯しお経をよむやうに叉、祈るやうにしたいと言ふ希望である。實に感じ入ったのである。自分もわづか百字あまりの六の目的位暗記したいとおもっても中々之は難しい。常に携帯して居ても困難である。亦翻譯も種々試みて見た。東京に委員を置いて他クラブの同意を求める事にしたのである。一昨年大阪クラブへ差し上げたがそのままになって居るやうな次第で犬變難しい。第一、サーヴヰスと言ふ言葉これが實に難しいのである、だから英語のまゝの方がよいと思はれる。これは誰がやっても批評の種を播く事になるからやるならロータリーアン以外の英語學者でそして宗致、哲學、文學的性質を有する人に依頼して作って貰へば、皆がうけ入れる決議をしてもいゝと考へるが如何なるものであらうか。

【写真】第一回ディストリクト大会の懇親会

 

 ゴールデンルールと雖も時代により變化する。實業界に於ては六の目的が、ゴールデンルールである。それにはクラシフィケーションとアテンダンスの二つを守らねばならない。 目的及コード此は勿論の事である。例へて言へばクラシフィケーションは岩石であってこれをセメントするものはアテンダンスである。そして段々固く且大きくしてゆく可きものであると信ずる。
 一業一人に就て不平の聲を聞かぬでもないが、これはやはり現在のまゝの方がいいんぢやないかと思ふ。とにかく、初めてのことで、運営する京都クラブも手探りであるし、ガバナーである米山もそうであった。
 ただ、そのなかで、懇親については、盛大にずいぶん華やかに行われた。これは、その後の地区大会にも見られる。交流、懇親は、ロータリーの奉仕にとって重要であるという表れである。

<ダラスでの国際大会>
 米山は、昭和4年の7月1日から2期目のガバナーを務めるわけであるが、年次大会の終わった直後の昭和4年5月10日、横浜港から春洋丸で、子息桂三を伴って旅立った。アメリカ、ヨーロッパをまわり、桂三をロンドンに置き、8月17日マルセイユからインド洋を経由して、帰ったのは、9月23日である。
 このときの目的は、5月27日からのアメリカ、テキサス州ダラスで開かれる世界大会に出席すること、それと慶應大学助手に採用された桂三に世界を見聞させることであった。
 ダラスは、先にも触れたように日本ロータリー発祥について、大変ゆかりの深いところである。米山の心中を察するとすれば、そのようなゆかりの地に長男、二男を亡くした後、世界を経験させるために三男の桂三を伴い、ロータリーのガバナーとして、この地に立ったことの感慨は余りあるものであったろう。
 米山は、大会2日目の5月28日朝ダラス駅についた。ここには会長のサットンも迎えに来ていたが、米山の列車が1時間半も遅れたため、米山の着いたときにはいなかった。この日の各ガバナーの紹介の場では、サットンから一番最後に特に懇ろに紹介された。米山は、4日目の30日、一場の演説をし、日の丸の旗をダラスクラブに贈った。そして、31日には大会が終わったが、国際協議会出席のため、6月5日までダラスに滞在し、翌6日ダラスを後にした。
 米山から第70区の各クラブに、ダラス大会に参加しての書信がある。大阪クラブ会報第291号、第292号、第302号に掲載されているので、資料編に転載した。これによると、米山は帰途、シカゴに立ち寄り、6月9日ロータリーの本部を訪ねている。ポール・ハリスに会いたかったのであるが、事務総長のペリーには会えたものの、ポール・ハリスには会えなかった。
 米山は、昭和5年3月25日、『東また東』という歌集を出した。そのなかに「ダラスにて国際ロータリー大会に出席して」として、次の二首がのせられている。
  今しここは 早くも真夏なり
    一万の大衆つどふ もゆる思いに
  奉仕てふ 心めでたき純絹に
    そめたる國の 四十余の旗
 このときの国際ロータリーの会長サットンは、東京で、そのほゞ半年前の昭和3年10月1日から4日まで開かれた第2回太平洋会議にも出席して、米山とは、親交を深めた仲である。
 このときのことについて、次のようなエピソードがある。
 奉天ロータリークラブの認証状伝達式(チャーターナイト)が昭和4年10月5日、新築なったヤマトホテルで行われた。このときガバナーの米山は、アメリカ、ヨーロッパの旅行からその前月23日に帰ったばかりで、出席しなかった。
 その代理を東京クラブの北嶋亘がつとめることになっていた。ところが北嶋が前夜体調を崩し、さらにその代理役を東京クラブのフレーザーが務めた。フレーザーは、その年の5月、ダラスでの世界大会に出席していた。そのフレーザーがこんな挨拶をした。

 今夏のダラス大会には私はガヴアナー米山と共に出席し、私は東京及び名古屋を代表したのであります。ガヴアナー米山は大会2日目に漸くお着になりましたが、大会議長サットン氏は一万の会員をほったらかして彼を駅頭に迎えた為に大会は10分以上も遅れて開会されたのでありました。プレヂデントは壇上に列ぶ50乃至60のヂストリクトガヴァナーをアルファベット順に一々紹介したのでありましたが、H、I、Jと来ても中々ジャパンを呼ばずに素通りにして行きましたので、会衆は承知せずジャパンは何した、忘れたのかと異口同音に叫びましたが、サットン氏は平気で議事を進め、さて曰く「私は最善のものを最後に残しました。只今日本のガヴァナー米山を紹介致します」 というや一万の会衆一斉に叫んで賞楊し歓呼しました。ガヴァナーは流暢なる英語を以て一場の挨拶をなし一同に深き感銘を与えました。〔大会最終日に〕特に曰本のロータリークラブにとり由緒深きダラスのホストクラブに対し曰本のロータリーを代表して曰の丸の国旗を送られましたが、之は実に意義深きことでありました。曰本にロータリーを持って帰った人は、実にこのダラスクラブの会員であった日本人であったということであります。

<第2回地区年次大会>
 第2回の地区年次大会は、昭和5年5月10、11日、神戸で開かれた。米山は、ここで三度ガバナーに選挙された。このときは、すんなりうんとは言わなかった。選挙委員会の議長が全会一致で、現ガバナーの米山を豫選した旨を報告すると、米山は、当惑の色を示し、「ロータリーの主張から見ても再三の重任は甚だ考へ物であるのみならず、自分は豫て此の任期を終り次第當然退任することを堅く決心して居った場合、只今報告された豫選は全く自分の希望を裏切り、甚だしく自分を苦境に陥れるものであるが、投票すらも用ひず全會一致での御橡選とまで承ってば、即座に御断りすることもゆたか禮にあらずと思ふし」と、困惑の体で決答保留の態度であった。結局、これを受諾するに至るのは、その夜の晩餐会の席であった。この大会で、奉天クラブから「ガバナー事務所よりブレチンを発行して頂く事」などを含む5つのことが提案された。米山は、この提案について、資料編に掲げるガバナー通信の昭和5年9月25日号で、各クラブの意見をとりまとめ、自分のコメントも加えたものを発表している。ブレチンのことについては、ガバナー通信の部分で触れる。

【写真】第二回年次大会の記録

  米山は、この大会のガバナー告示のところで、以下の趣旨のことをいっている。

 ロータリーはインターナショナルな力強い運動である、其の起源がアメリカであるからとて一から十までアメリカ式に遣る必要はなく、日本のロータリーは日本独白の行き方を加味すること亦大に可である。併し、ロータリーの動かす可からざる根底と基礎とを会員個々が先づ十二分に了解会得せねばならない。したがって、コンスチチューション〔定款〕やバイロース〔細則〕の熟読精究は必要である。当区に於けるロータリー運動の進展に関しては、中国、九州、台湾等には特に速やかにクラブの設立を見ることを望む。既成クラブの発展については、会員数の増加は固より望ましき所なるも、夫れよりも新入会員の選択には十二分の考慮を要すべく、其の人格さへ満足なりとすれば、職業分類の如きは出来る限りの斟酌融通を加ふるも可なり。

<徳川家達のシカゴ大会出席>
 米山のガバナー時代に特記すべきことは、ロータリーの創立25周年記念の国際大会が1930年(昭5)6月23日からシカゴで開かれ、ここに東京クラブの名誉会員として、徳川家達を送り出したことである。
 このとき、25周年ということで、58力国から1万1千人余の参加者があった。日本では当時10のクラブがありで、会員数は、520名、この大会には、徳川家達の外、東京クラブからフレーザーが出席した。
 貴族議院議長の徳川家達は、ここで30分間にわたり、「民族の勃興」と題して演説をした。これは、全米に放送された。
 このいきさつは、大会委員の「東洋特に我が日本より著名なる人物の代表的演説を得んことを企てたるなり、恰も一昨年奈良に催されたる太平洋會には幾多のロータリヤンありしが中にカナダより出席せるネルソン氏は又是れ大會委員の一人にして、滞在中熱心説くに此事を以てせる故、阪谷男爵〔阪谷芳郎明41大蔵大臣〕とも計り余は先づ走って徳川公に赴けるなりしも、公の一諾を得ること能はず、公を措ては亦他に大會委員の希望するが如き人を得るのは容易ならざるを以て、一時は之を断念せんとせるも、遂に外務省の協力により公の欧洲行の旅程に数日の割愛を乞ふことに成功せり」ということであった。
 主催者側でも気を使い、最高の礼で迎えた。シカゴ市では、有名な儀杖黒騎隊を付けて、徳川家達を送迎したという。
 徳川の演説は、「世界平和と理解にとって重要なのは、愛国心を育て、これを守っていくことです。愛国心には、最も広い意味では、母国愛、母国の歴史、伝統、環境および慣習に関する誇りが含まれますが、その根本には、常に、人類の権利は、個人または集団の権利を超えるものであり、従って、ナショナリズム、国民の愛国心、国民の大望は、国際理解、国際親善(道徳性、正義、友好を意味する)、他の人種や他の国民を理解しようという意思、また、偉大な人類の一員として働くことに寄与するという概念が存在するのです。」というような内容であった。
 米山は、これに随分気を使い、力を注いだ。もちろん先方からの誰かということで実現したものであるが、やるからには、多難の時代をむかえつつあるなかで、日本の国民の大勢は、そして日本のロータリアンは、平和を望んでいるということを訴えたかったに違いない。
 しかし、「満州の雲足には異常な速さが感じられつつあった。徳川公は、多難な前途を予想しつゝも、平和を愛するロータリアンを前に堂々と所信を述べて訴えたのである。その後の情勢急転を思えば、これが、ロータリアンである日本人として、日本に対する理解を求めようとした、最後の努力であった。」

<各クラブ訪問>
 米山は、第3期目のガバナーのときの昭和5年10月、各地ロータリークラブの訪問の旅に出た。
 10月12日、夜東京を発って、13日神戸港から大阪クラブの土屋元作と行をともにした。土屋とは、若いころからの付き合いである。土屋は、第2回太平洋会議のとき、二宮尊徳について、「ロータリー以前の偉大なるロータリーアン」という題で講演をした。自説を曲げず、歯に衣着せずズケズケとものをいう。米山は、あれこれと手をさしのべていたようであるが、米山とはとかく馬があった。
 13日夕刻、香港丸で神戸港を発ち、瀬戸内海を西に向かい、16日早朝、大連港に入った。大連ロータリークラブ会員の歓迎をうけ、ヤマト・ホテルの例会に出席する。ハルビンクラブの例会を17日に変更してもらい、20日には奉天クラブの例会に出席する。本来は、例会日が土曜日であるのを月曜日のこの日に替えてもらった。

【写真】首相官邸で大茶会を開催し、ロータリアンを歓迎した斎藤貢首相夫妻
(『東京ロータリークラブの70年』より)

 21日には南下して京城に。京城クラブは、当時の朝鮮総督斎藤實の勧めと米山の意をうけた松岡正男、住井辰男の準備により、昭和2年8月、設立された(ただし、斎藤實は、設立のときは総督を変わっていたが、昭和4年8月からは2度目の総督であった)。京城クラブでは、自分たちのクラブの父として、斎藤實を名誉会員としていた。米山が京城に来たとき、斎藤は、用務で京城に居なかった。ちなみに斎藤實は、総督をやめた後、昭和6年5月26日、首相になり、東京クラブは、斎藤を名誉会員とした。そして、昭和8年、東京で地区の年次大会が行なわれたときは、斎藤により、参加者全員が首相官邸に招待された。
 話が横にそれたが、22日、京城クラブの定例会に出席し、23日朝、釜山より下関に出て、翌朝24日大阪にそして、大阪クラブの例会に出る。その日の夕、京都クラブの臨時例会。25日、名古屋クラブにここで、土屋と分かれる。26日、帰京し、28日横浜クラブの例会に出席、29日に東京クラブの例会に出席する。
 とりあえず、2週間ほどで、ガバナーとしてやれなかったクラブの訪問を形式だけでも終わったという。神戸の例会に出なかったけれど、神戸を発つ前、会員の何人かと会談をした。米山は、足早に各クラブを訪問したなかで、会の新旧を問わず、一度成立したときは、ロータリー精神に固く根ざし、いっそう盛んになるのは、国際ロータリーの組織が現代の必要を充たすものである、という感想を漏らしている。

<台北クラブの創設>
 台湾の台北にロータリークラブをということが取りざだされていた。なかなか進捗しなかったが、昭和6年3月にようやくその目鼻がついた。米山は、一気呵成に設立にこぎつけようと、3月23日、神戸港から蓬莱丸で渡台する。これには、米山の秘書中野三郎も同行した。また、偶々社用で台湾に行く東京クラブの芝染太郎(昭和13年7月から第70区の専任幹事)も一緒だった。このときも大阪クラブの土屋元作を誘ったという。
 26日、台北に着く。翌日昼に発会の準備の会合。夕刻には、28人が出席し、発会となる。会長は、幣原坦(幣原喜重郎の兄)台北帝国大学総長であった。米山は、28日夜、台北JFAK放送局から「国際ロータリーの組織に就て」と題して講話(資料編に全文を掲げた)を放送する。これらが終わって、帰途につき、4月2日門司港に、4日帰京する。
 この台北クラブ創立のとき、こんな笑えない事実があった。「ガバナーがお出でになりましたとき、創立の会がありました。その時に、日頃見慣れない人が2人後ろに座って居た。よく見ると、台北の警察署の刑事巡査であった。ロータリー・インターナショナルといってインターナショナルという字があるので、ロータリークラブというのは一種の秘密結社であろう。それと三井信託の社長がどういう関係があるのだろうと色々想像していたようである。」と。もう時代の歯車が狂いはじめていたのである。
 米山は、昭和3年7月から3期、昭和6年6月までガバナーを務めるのであるが、この間、大連(登録番号3037)、奉天(登録番号3116)、ハルビン(登録番号3334)、台北(登録番号3450)のロータリークラブが誕生した。これにより、第70区のロータリークラブの数は、11となった。

<米山梅吉のガバナー通信(仮称)>
 米山は、日本に第70区がもうけられるとそのガバナーになった。昭和3年7月のことである。
 地区制になって、最初の地区大会が昭和4年4月27、28日、京都で行われた。このとき米山は、先にも触れたように挨拶で、レターも出さず、旅行もしない、50%のガバナーだといっている。
 このレターというのは、ガバナーがクラブの会長、幹事に所信や所見を伝えるもので、ガバナー月信をいうのであろう。そのレターをいわば突然、昭和5年5月25日に出した。米山は、ガバナーを3期すなわち昭和3年7月から昭和6年6月まで務めた。昭和5年5月というと、その2期目の終わりころである。
 なにか唐突の感じである。初めから出せば 就任の感想があったり、今後の方針を述べたりするものであろう。途中から出すとすれば なぜいまの時期にこれを出すのかなどのいわれがあってもよい。しかし、そのような発行にいたるいきさつや心情などは、何ら触れていない。
 米山は、昭和8年8月26日、大阪の綿業会 館で開かれた地区協議会での挨拶で、次のようにいっている。
 「私は本部を代表して居ると云ふ考があったのでありますから、其の義務を盡さなければならぬと思ふのでありますが、ガバナースレターなどを出して、諸君の叱言を食ったり、批評を受けるのも厭だと思うて、最初の一年はガバナースレターを出さなかった。二年目に初てさうしたものを出したのでありますが、而もガバナースレターと云ふ名を避けて、他のタイトルで出し、三年目も出しました。併し甚だ不完全なもので、謄寫版で少しばかり刷って、各クラブに二三部づゝ送ったと思うて居ります。」
 叱言を食ったり、批評を受けるのも厭だと思って、というのは、米山らしくないが、これは、挨拶のなかでの言葉である。おそらく、米山としては、レターを出すべきとは考えていたのであろう。しかし、出すことなく経過してしまった。そんなとき、2回目の地区大会が昭和5年5月10、11日、神戸で行われた。そこで、奉天クラブから、「ガバナー事務所よりブレチンの發行」ということが議題として取り上げられた。『大阪ロータリークラブ50年史』や平野克昌が指摘するように、米山がこれに素早く反応し、昭和5年5月25日号になったものであろう。現に、米山は、その昭和5年9月25日の号で、「不完全ながら已に實行し居ること御承知の通り」と書いている。
 なお、『大阪ロータリークラブ50年史』には、以下のような記述がある。

ガバナー通信(仮称)

 昭和3年7月、日本に第70区が設置され、米山梅吉氏が初代のガバナーに選ばれた。当初はガバナー月信と名のっくものはなかったが、その翌年ダラス大会に出席された米山ガバナーは同地から三回に亘って大会の模様を各クラブ宛に通信されている。そして其の帰途ロンドンに立ち寄られたガバナーからの通信は漸くガバナー月信の内容に近いものとなって来た。
 その翌年昭和5年5月、神戸で開かれ九地区大会で奉天クラブから提案があり、ガバナー事務所から定期的ブレチンの発行を望むと云う声が出たので、米山ガバナーは此れに応じて、その翌月から「昭和6年4月コンファレンスまで」と云う唄い文句で各クラブ会長宛、月信を書き初められた。騰写版刷りのものであったので、当クラブでは其の都度週報に転載されているが、これが日本に於けるガバナー月信の濫觴と云うべきであろう。
 このガバナー通信は、以下のように、その後毎月ほゞ25日から月末までの間に発行されている。ただ、昭和ら年3月は遅れてしまって申し訳ないといって、4月10日付、4月は5月1日付となっている。そして、その月9日、10日に横浜で大会があったことから、5月23日付で、そのあと6月5日、6月30日付で発行されている。
   昭和6年4月のコンフェレンスまで(一)
          昭和5年 5月25日付
   同(二)   昭和5年 6月25日付
   同(三)   昭和5年 7月25日付
   同(四)   昭和5年 8月25日付
   同(五)   昭和5年 9月25日付
   同(六)   昭和5年 10月31日付
   同(七)   昭和5年 11月29日付
   同(八)   昭和5年 12月29日付
   同(九)   昭和5年 1月27日付
   同(十)   昭和5年 2月25日付
   コンフェレンスまで(十一)
          昭和 6年 4月10日付
   同(十二)  昭和 6年 5月1日付
   コンフェレンスのあと 1
          昭和 6年 5月23日付
   同 2    昭和 6年 6月5日付
   同 3    昭和 6年 6月30日付

 米山梅吉記念館は、この昭和6年4月のコンフェレンスまで(一)ないし(十二)、コンフェレンスのあと1ないし3を所蔵している。これは、ガリ版刷りで、一冊に綴じられている。現在、記念館展示室に展示されている。
 この発見の由来は、元理事長坂本豊美の『藍壷覚書』70頁にあるとおりなので、詳しくは述べないが、概略は以下のとおりである。平成9年秋ころ、記念館の管理や事務の手伝を地元長泉町の郷土史家の柏木勲(現在92才)に依頼していた。記念館では、米山家や長泉町米山文庫からうけた資料、書籍の整理もままならなかった。柏木は、事務の暇をみては、これら未整理の資料を整理していた。そんなとき、これを見つけ、こんなものがありましたと、当時理事長の坂本にご注進に及んだ。こうして、これが日の目を見たわけである。
 そんなこともあって、『覚書』では、仮称と断りつつ、米山梅吉の「ガバナー月信」として、この資料のうちの何ヶ所かを紹介している。
 タイトルがガバナー月信とされていないとしても、坂本も言うように、実態はガバナー月信といえる。しかし、日本のロータリーでは、ガバナー月信の第1号は、米山の後の第2代ガバナー井坂孝のときの昭和ら年8月10日のものが最初だとされている。
 それ故、ここでは、仮称でもガバナー月信ということばを避け、米山がこの最終号で、「今回の本通信を以て小生ガバナーとしての告別の號と致し候」といっていることから、米山梅吉ガバナー通信(仮称)という題名とした。そのうえで、この一部は既に坂本の『覚書』に載せられているが、ロータリーについて、米山の考えを知るうえで参考になるだろうし、また広く知られていないと思われるので、資料編に全文を載せた。
 この一枚目冒頭に、「昭和五年日本のロータリークラブが初めて第七十區と成り余ガバナーたりしに翌六年再選せられたるを以て其役引退を希望せるに三たび擧げられ七年に及びて辞するを得たり 米山」という記載がある。
 これは、後にメモ的に筆で加えられたものである。年代の面で明らかに記憶違いと思われる。日本のロータリーにおいて、初めて地区がもうけられ、第70区とされたのは、昭和3年7月のことであり、米山がこのとき初代第70区ガバナーとなった。
 したがって、「昭和五年」は昭和3年、「翌六年」は翌4年でなければならないし、三度ガバナーに舉げられ、それが終わったのは、「七年」ではなく、昭和6年6月のことになる。
 このようなことからすると、この加筆は、相当時間か経ってからなされたものであろう。

7.ロータリーの拡大

<質について>
 米山は、ロータリーの会員の質について、厳しい考えを持っていた。ロータリーが国際性のあるものであることから、最低でも英語が出来ることが条件であった。シカゴの幹部が日本のロータリアンはどの程度英語ができるかと質問したとき、すべてと胸をはって答えたのもむべなるかなである。米山は、訳書『ロータリーの創設者 ポール・ハリス』の序で、「クラブの會員は悉く原書を讀[み]、英語を解する人のみである」といっている。
 そして、米山の属する東京クラブでは、会員の入会については、高いハードルが要求されると同時に、当初のころは、米山の首を縦に振らないと入会がかなわなかったという。
 米山は、誰とでも付き合うが、駄目だと思うと徹底してる面があったようである。これは米山にへつらうとかの意味ではないし、性格が合わなければということでもない。たとえば土屋元作がある。この人は、自身の信念を曲げず、誰でもどのような場面でも、歯に衣着せずに直言するようであった。おそらく、多くから煙たがられていたであろう。米山は、この土屋とは、明治26年5月シカゴの万国博覧会でともに働いて以来の付き合いである。この土屋とは随分馬があった。土屋は大正11年6月、東京クラブに入っている(大正12年3月退会)。おそらく、米山の推薦であったろう。その後、大正13年8月1日、大阪ロータリークラブに入った。米山が昭和5年10月、ガバナーとしてクラブ訪問のため、満州、朝鮮に旅行した。これには、土屋も同行している。米山が同行を求めたことである。その翌年3月、台湾の台北クラブの設立のときも、同行はしなかったが、土屋に同行を求めている。このように性格が合わなければということではない。
 ただ、質のことをいうのであれば、東京クラブは、昭和6年のころには、会員数が150名程度であった。入会の希望が多く、厳選しないと、とても対応しきれなかった(昭和6年5月23日、横浜大会で東京クラブ発言)。このようなところでは、質が高くなるのは当然でもある。
 また、他のクラブでも、質ということを重要視して運営されていた。昭和2年10月の第2回の日本ロータリー連合懇親会では、会員の選考を一層厳格にするという決議がなされたほどである。これは、単に手続きを厳格にということではなく、内容の面をいっていることであろう。
 米山は、日本のロータリーの質の高いことは、自他ともに認めるところだとする。その上で、ロータリーの質は維持されるべきものであるとの考えであった。

<拡大について>
 米山は、初めの時期、新しいクラブの急な親切に積極的ではなかったと思われる。米山の会員選考基準は、極めて高いものであった。拡大が必要であるとしても、そうような高い質の会員がそうおいそれと集まるものではないとの考えもあったであろう。この点、国際ロータリーの行き方、特にアメリカのロータリーと米山の高い志向とは違っていたといえる。
 米山は、新しいクラブを作るときには、とにかく目を見張るような超一流の人物を会長に持ってくる。そして、それを求心力として、基礎を固めようとする。
 面白いのは、台北、札幌、仙台の会長である。台北は昭和6年3月27日(登録番号1621B)、仙台は下って昭和12年2月20日(登録番号4266)の設立である。その会長であるが、台北は幣原坦、札幌は佐藤昌介、仙台は本多光太郎である。いずれも台北、北海道、東北の帝国大学総長あるいはそれを務めた人物である。
 この例に見られるように、米山は、会長にあっと驚くような人物を据えるやり方をとっている。それにより、その会の認知度を上げ、その後の運営をスムーズにする。創業に際しては、大きなエネルギーで大きなはずみ車をまわし、その後その勢いで、組織を動かしていこうというのである。
 米山は、現に、昭和8年8月26日の地区協議会のとき、「チャーターメンバーというものは非常に大切なものであるから、どうしても第一流の方にお願いして、基礎を作らなければならなかった。」といっている。

<米山梅吉の拡大についての発言>
 ロータリーの質、拡大のことについて、米山の発言の経過を若干たどってみる。
 第2回年次大会(昭和5年5月神戸)での、ガバナー挨拶のときの発言である。
 「世間にはいろいろの会合や団体があるが、通知も出さず、出欠もとらないで毎回4分の3以上の出席のある会がどこにあろうか。宗教とは関係ないが、宗教以上の信念で団結していることは、この出席を見てもわかる。」といって、日本のロータリーの質の良さをいう。
 そして、ロータリーの拡大について、「会員の増加は望ましいことである。それもさることながら、新しい会員の選考には十二分考えるべきである。その人格が充分であれば、職業分類はできるだけ斟酌融通をし、あくまで質本位の手堅い方針でやるべきである。」ともいう。ちなみに、職業分類について融通をというのは、京都での第7回年次大会(昭和10年5月)のときの前夜懇談会での出席率適用(緩和)についての考えと同じである。規則は守らねければならない、しかし、常識にあうなら、理事会で処置ができる筈であると。物事の対処について、米山の基本的な考え方であるといってよい。
 ガバナー通信、昭和5年7月25日付号では、「国際ロータリー本部も、米国などの一挙に多数のクラブを設立し、無暗に會員の増加をはかるという方法は、日本のロータリーにとり得策ではない、という意見を尊重するようになった。そして、日本のロータリーの質のよいことを認め、会、会員の少ない割に、日本が大切にされるようになった。」という。
 ガバナー通信、昭和6年5月23日号(横浜での地区年次大会の挨拶)での拡大や質について、いうところの要旨は、次のようである。
 「11年前の日本のロータリークラブ創立当初より、「量よりも質に於いて」との理想は、ロータリー自体の理想とともに守られ、今日に及んでいる。
 第70区内のクラブ数は、僅かに11である。量において少なきに失するとしても、質においては、倍のクラブ数に匹敵して遜色ないという自信をもっている。このことは、外国から来る訪問者が皆認めるところである」と。
 拡大について、次のようである。「会員数の増加については、努力が足りない。九州それと北部に少なくとも2、3のクラブを見るべきである。」と。
 昭和7年4月の大阪での地区年次大会で(ガバナー井坂孝)、国際ロータリー本部代表の挨拶のなかで次のような発言がある。

 会員の増加を図ることは必要なことであり、増加は慶ばしいことである。しかし、徒に会員の増加を図るべきではない。日本のロータリークラブは、最初から、会員の数よりも質に重さを置くのでなければ、真の國際平和、國際理解という目的を達することができないということでやって来た。私は、この日本のロータリーの伝統的な行き方が間違っていなかったことを切実に感ずる。

【写真】第四回年次大会

 ところで、昭和8年7月からガバナーとなった村田省蔵(大阪)は、その年の8月26日、大阪で開かれた地区協議会で、次のようにいって、ロータリーの拡大の方針を打ち出した。「七十區のクラブ数は僅かに十四で、會員の数も六、七百でありまして、是亦非常に少ない。米山元ガバナーや井坂前ガバナーのいうように、質は世界に見て、非常に良いと云ふことは事實であります。しかし、唯質が良いと云ふことを以て誇とせず、更に量をも多くして、同時に又一層質を良くする方法を考へなければならない。既設クラブの會員の増加を圖る必要があると思ひます。」「ロータリーを地方的に擴張すると云ふことを実行したい。現に岡山、小樽、新潟、仙臺で設立勧誘中の動きがあるが、其の外長崎、關門、高松、金澤、和歌山と云ふやうな、日本の都市としてどうしてもクラブを有つてゐなければならぬ所がまだ澤山あります。一年に十も二十も造ると云ふやうな亂暴なことはしたくありませぬが、本年は更に二三のクラブは殖して見たいと云ふ考を有つて居ります。」と。
 これに対し、米山は、意外にもあっさり賛成であるといって、村田に同調した。
「村田君のお話に少し裏書をして見たいと思います。」といって、概略次のようなことをいった。

 ・この第70区が世界のロータリーの中でも最も進歩した高尚なものであるという事は世界が
  認めている。
 ・最初一つのクラブが出来、二つのクラブが出来るという時に、チャーターメンバーという
  ものは非常に大切なものであるから、どうしても第一流の方にお願して、基礎を造らなけ
  ればならなかった。
 ・その後私はロータリークラブにはもっと若い人を入れなければならないと考へて、東京
  クラブではその精神が取り入れられ、今日では大分若い人が入っている。ロータリーは
  何も旦那さんの集まりというのではないので、もっと若い人を入れるようにしなければ
  ならないと考えている。
 ・米国のクラブが粗末であるということは大勢を網羅しているということを示すもので、
  勢い質においては粗末になる。このため、エデュケーションに努めていて、向こうでは
  それが必要である。
 ・日本は質が良いから、エデュケーションの必要なしといって見たところで、何時までも
  人数が少なくて、唯一のアツパークラスの集会のようなことになつていては何にもなら
  ない。結局アメリカのように少々粗末でも、世界の平和と、グードウヰルとアンダー
  スタンデイングということに向かってジョインして行く会員が大勢であるということが、
  ロータリーの精神を世界に広めて行って、やがてその理想を完成するという上には必要
  であろう。
 ・少数で質の良いのが可いか、少々お粗末でもロータリーの目的に向かってジョインして
  来る善良な会員の多い方が可いかというと、ロータリーとしては矢張り前者よりも後者
  の方が可いと思う。
 ・基礎はもう確実になっている。此の確実な基礎の上にもう一層この第70区の拡大を図り、
  会員の増加を図ることは、極めて重要なことである。

 なお、その後の昭和9年5月、名古屋での地区年次大会(ガバナー村田省蔵)での発言も、「日本のロータリーは初めから『量より質』の固い原則を守られている爲に、その實質に於ては確かに他國を凌駕しております、しかしながら數も亦増加しなければ如何にロータリーが理想を有つておりましても擴張に遺憾を感づるのであります。」といって、略同旨である。
 昭和8年8月のこの大阪での地区協議会での発言は、以前の米山の発言の流れを見ていたとき、おやっと思えるものである。
 米山の質から量への基調的な面でのターニングポイントは、何であったろうか。今これを明らかにすることができない。ただ、次のようなことは、いわば質的な変化とも思えるこのことを考えるについて、一つのよすがとなることであろうか。
 日本のロータリーは、満州における日支の衝突、上海事変について、昭和6年10月1日、国際ロータリーから「兩國のロータリアンは宜しく平和解決に盡力すべきなり」といわれた。米山としてはロータリーが政治に関与しないという伝統的なやり方からすると意外であるとは感じた。でも、ロータリーも時代の推移とともに変わって行くべきである。
 ロータリーが政治に関与しないというのも、地方的なことであって、もう今日の世の中になっては、国際的な問題について、寧ろ堂々と意見を発表してよいという時期が来ているのではないか。現下の日支問題のごとき、いやしくもロータリアンたる者は、これについて、何等かの意見がなければならないだろう。それには会員の多数であることが必要である。同時に会員の質を良くすることがこれまた必要になってきた。このようなことを先の昭和7年4月の地区年次大会、國際ロータリー本部代表の挨拶のなかでいっている。
 米山は、その後の世の中の推移をみて、「孤高を保つのもよい。しかし、それでは世の中の事象に対し、何もできない。このようなことでいいのであろうか。ロータリーということでなく、会員が個人として、そのような世の中のことに対して、それなりの意見ひいては影響力を持つ必要があるであろう。それにはそれなりの数も必要であろうし、世の中の事象に正しく対応できる力を築き上げる教育も必要である。ロータリーとして、そのような教育を考える必要もあろう。」こんな思いにいたったのではないであろうか。

<郡山、仙台ロータリークラブの設立>
 米山は、ロータリークラブ創立について多くの働きかけをしているが、目についたエピソード的なものを一、二あげてみる。
 郡山ロータリークラブは、昭和11年5月19日設立された。会長となった橋本万右衛門は、仙台でロータリー設立の動きがある、それなら、それよりも一歩先んじようといって、米山と第70区幹事の芝染太郎が仙台に行った帰り、郡山に寄ってもらい、郡山にもロータリークラブを設立したい旨を伝えた。そして、その年の3月には、芝に来てもらい、一気に仮発会式にまでこぎつけた。そして、その2ヶ月後の5月19日には、発会式にいたった。
 この郡山クラブの発会式の時には、元国際ロータリー会長のマッカロー夫妻が出席した。マッカローは、その年の5月3日からの神戸での地区年次大会に、国際ロータリー会長代理として、出席する筈であったが、嵐の為、船が遅れて、出席不可能となってしまった。そのあと日本各都市のロータリークラブを訪ねていたが、札幌からの帰り、この発会式に立ち会った。
 また、ほゞ1年後に、認証状伝達式をやったが、米山が挨拶のとき、「皆さん、今日は、未熟児が生まれた。人口5万人の町ですくすく伸びるかどうか不安、参会の皆さん、どうぞよろしく面倒見てください。」と挨拶でいったという。
 郡山クラブの『35年史』(昭46.06.25)には、「昭和11年正月橋本万右衛門氏は、佐藤伝三郎、遠藤安一郎、鴫原弥作各氏との懇親会を催した。席上ロータリークラブなるものを郡山に設立したい、旨を伝えられた。橋本万右衛門氏は、東京に支店を持ち、東京財界の人達と交歓あり、日本工業倶楽部の会員であった。このようなときに、米山梅吉先生からロータリーの教えを受けたと思われる。又、米山先生は必ず最初にその地方の有力者に働きかけられたと聞いている。」という記載がある。
 一方、仙台は、米山が郡山より先に働きかけていたが進まず、設立は、翌年12年の2月20日と後に企てた郡山のほゞ1年遅れとなってしまった。
 『仙台ロータリークラブ40年史』(昭52.12.10)には、次のような記事がある。
 創立会員一力次郎の昭和45年4月仙台南ロータリークラブ600回記念例会での話。「ところで先日。… 一冊の本の間から一枚の葉書が落ちました。郵便往復はがきの往信の一枚で、表は12・2・16のスタンプで『市内東一番町82 一力次郎様』とあり、ガリ版刷りの本文は、
 拝啓 … 偖て今回三井報恩会理事長、ロータリークラブ前ガバナー米山梅吉氏に御来仙を御願ひして『ロータリーの話を聞く集まり』を先により開きたいと思ひます。何卒御出席下さいますやうお願い致します。(中略)30人位にこの案内状を出したでしょうか。そして、結局この会合をもって設立総会としました。」
 やはり創立会員で昭和12年1月26日三井生命仙台支店長に発令された小橋一雄の次のような文章がある。
 三井生命仙台支店長に任命された直後、米山梅吉翁(当時、三井報恩会理事長)から、『理事長室に来るように … 』との連絡があったので、早速たずねると、37歳の若輩だった私を、まるで友人が同僚に対するような親しみを以てやさしく迎え入れて下さった。当時の偉い人達と全然ちがった御様子に驚き、感激してしまった。まず、支店長就任に対する喜びを述べられてから、ロータリーの歴史・現状・ロータリアンの使命等詳細に説明して下され、さらに着任したら、河北新報社長一力次郎氏に協力して、ロータリークラブを創立するようにとの御依頼があった。(中略)会長は東北帝国大学総長本多光太郎博士に御願いして、昭和12年の2月に創立、同年5月7日に承認され、東北6県中、2番目の仙台クラブが誕生した。

8.米山梅吉とポール・ハリスおよび その来日

 米山は、昭和3年9月、その年に著された『ロータリーの創設者 ポールハリス』という本を翻訳した。米山はこの翻訳の始めで、ポール・ハリスについて、次のようなことをいっている。


『ロータリーの創設者』

 此の書の中に最も感を深くする點が三つあると思ふ。第一はポールの態度が如何にも敬虔で、ロータリーのような大運動を起こした人の其れに似合はぬ程遠慮勝ちであること、第二は彼は頗る文學的天分に富んでゐることが記述の間に現はれ、美事に全編の文を進めてゐること、第三は彼は真に躬行實践の人で、艱難辛苦を嘗めて来た其生涯から得た温い人情味が、一貫して友好の重きを知らしめ、ロータリーの精神が其處から出發して、「己が他より施されんと希ふ如く他に施せ」といふ、古き真理が新しき輝きを以て、此の人生を有意義のものとするに與って力があると云ふことである、と。
 米山は、昭和8年ころかに、銀座の立体写真胸像製作所で作らせた自分の等身大の胸像をポール・ハリスに贈っている。
 しかし、米山は、まだポール・ハリスに会ったことがなかった。ポール・ハリスは、今の日本の大部分のロータリアンにとって、歴史上の人である以上に伝説的な人物でしかない。
 その、ポール・ハリスが昭和10年2月18日からマニラで開かれる第5回太平洋ロータリー会議に国際ロータリーの会長ボブ・ヒルとともに出席し、その折、日本に立ち寄るとの情報がもたらされた。太平洋の船上からもたらされた情報では昭和10年2月6日から9日まで日本に滞在するということであった。当時のロータリアンにとては、いわば教祖の来日のようなものである。
 東京クラブや横浜クラブでは、これに合わせて、歓迎の陣をはって、いまや遅しとまっていた。ところがなんといういたずらか、航海中ずっとストームで、船の到着は遅れに遅れた。横浜港到着は、3日遅れの9日の朝5時になってしまった。予定していた準備はすべてご破算、結局東京には1日の滞在もできなくなってしまった。そのため、ポール・ハリスは、自然のストームとは別に激しい歓迎のストームに遭うことになる。
 東京会館での東京、横浜ロータリークラブ合同の歓迎会では、はじめ熱狂的なファンから握手ぜめであったという。東京であちこち引きまわされ、やれやれと硬い、狭いしかもガタガタと揺れる夜行列車の寝台で夜を明かしたのも束の間、翌朝から京都、大阪でまた歓迎のストームが待っていた。大阪での歓迎会場、新大阪ホテルでは、「ハリス翁夫妻がエレベーターから會場に顔を出すや、待ち構えた一同は拍手と憧憬に異情の興奮振り」だった。そして、2月10日の夕刻、一陣の旋風のごとく、神戸港から日本を去っていった。


来日したポール・ハリス一行 於 大阪
(ロータリーの友 昭和54年4月号より)

 今、その歓迎日程をみて、何とも大変だったことであろう。ポール・ハリスは、米山と同じ1868年の生まれである。したがって、当時67才であった。昔の人は、身も心も強靭であったのかもしれない。たえず注視をうける、たえず中心にいる、挨拶に立たなければならない。好意と友情からの歓迎に、疲れた嫌な顔を見せるわけにはいかない。いま我々のみるポール・ハリスの写真は、いずれもおだやかないわば諦観したような、モナリザではないけれども笑みをたたえたようなたたえないような風貌である。畳の上で箸を使って日本料理を食している顔も、東京会館での記念写真の顔もそうである。人間の容貌は、至り来たった苦楽、それにより形成された人格、品格を表すものであろうか。
 東京での歓迎は、すべからく日本風であった。まず、二重橋、明治神宮に。そして、昼食は、芝公園のなかの日本料理の料亭、紅葉館で、畳の上での箸による純日本料理、ここには芸者もはべる。その後、御木本真珠店、三越へ。夜の宴会、東京会館では、部屋を桜の花咲く隅田川の春景色になぞらい、洋風の窓や戸は日本の提灯で隠し、三囲神社をまねた建物まである。別室の日本古流の茶室では抹茶の接待が行われる。そして、琴、三味線、尺八による合奏とさくらおどり。
 晩餐会では、ポール・ハリスが君が代のオーケストラ演奏中、天皇陛下のために乾杯をした。また、日本側から、東京クラブの名誉会員、前首相斎藤實が米国大統領の健康を祝し乾杯し、その間米国国家が演奏された。
 食事も終わりの頃になり、東京クラブ会長鹿島精一が、また横浜クラブの副会長ソマーラーがそれぞれ会を代表して挨拶し、ついで米山梅吉が歓迎の挨拶を述べた。これに続いて、東京クラブの名誉会員徳川家達も挨拶と感想を述べ、次にヒル国際ロータリー会長の謝辞があって、最後にポール・ハリスが挨拶をした。
 ポール・ハリスの話は、米山の胸像が自分の事務室にあることなど、つきることがなかった。接待側は、汽車に乗り遅れるのではないかと気をもみ、もう時間がありませんとメモを入れて、ポール・ハリスの話がようやくと終わった。
 一行は、それ行けと、夜9時30分発の寝台急行に乗るべく、東京駅に急いだ。
 翌朝、京都で降り、京都ホテルで朝食をとった後、市内観光をした。それから、自動車で大阪に向かい、新大阪ホテルでの午餐会に臨んだ、ここでは、ポール・ハリスにその等身大の胸像が贈られた。大阪城や紀州御殿など市内観光の後、自動車で神戸港を目指した。そして、神戸港から、横浜港まで乗船してきたプレジデント・クーリッジ号で、夕刻、日本を後にした。
 東京での歓迎会のとき、米山は、ずいぶん長い挨拶をしている。米山は、この歓迎の演説を日本語でし、訳文を列席者に配った。その中から2点記してみる。1つは、富士山の頂上への道にたとえて、ロータリーにも最後の目的への道はいくつかある筈であるとして、ロータリーの地方分権のことを訴えている。2つ目は、故あってロータリーに結びつきえたが、もし出会わなかったら、自分はきっと同じようなクラブを日本につくったであろうといっている。
 歓迎側は凝縮された日程のなかで、日本を凝縮して見てもらおう、味わってもらおうとする。ポール・ハリスの滞在は、結局はごく短いものになってしまった。それでも一見に如かずである、我々は、接してみてその実を知る。いかなポール・ハリスとて、そこには変わりはないであろう。日本のロータリアンの熱情を身をもって知ったに違いない。ときは暗い時代に突き進みつつあった。自国にあって、ニュースで知る日本の情勢は、そんなことばかりが強調されていたに違いない。こうやって実際にまだそんなことばかりでない実情を知り得たのは、同じであったことであろう。


ポール・ハリスの植樹

 ポール・ハリスは、気ぜわしい日程のなかで、帝国ホテルの庭に一本の月桂樹を残した。ポール・ハリスは、このような記念の植樹が好きだそうである。月桂樹は、ポール・ハリスの発案になるものであろうか。月桂樹は、日本人にとって一般的ではない。いわば洋風のものである。
 この月桂樹は、戦禍のなかを生き延びた。それでも、時間の経過とともに当時の感慨が薄れ、老いも加わり、昭和42年には、気息奄々という状況であった。帝国ホテルが立て替えを計画し、この月桂樹も取り除かれる手筈であった。東京クラブの矢野一郎は、これを植え替えてももたないとみて、数百本の挿し木を取って、慈しみ育てた。その何本かが甦った。その一本は、いま記念館の庭に生育している。これについては、後に触れる。
 ポール・ハリスは、後にこの時のことを回想記に書いている。「この船には、当時国際ロータリーの理事で、以前の東京クラブ会長の宮岡恒次郎が乗り合わせていて、その宮岡がつねにそばにいてくれてよかったこと。ホノルルから横浜まで、8日間、天候は荒れ、波は高かったこと。横浜に入港した船の甲板から見た富士山が壮麗であったこと。そして、帝国ホテルでの記念植樹が非常に印象深い儀式であったこと。京都で二条城や樹齢200年にもなる桜の木が興味深かったこと。大阪の歓迎会場で、自分の胸像が置いていあるのに一瞬びっくりしたこと。」などなど。
 このなかで、米山のことについて、次のような記述がある。
 米山とは、このとき初めて会った。昼食時の紅葉館では、その米山がじきじきに私の世話をやき、箸の使い方を教えてくれた。この微笑みを絶やさない、端正な容貌の日本人紳士とのこれが初めての出会いとは思えなかった。その理由は、米山の等身大の青銅の胸像が自分のオフィスにあり、毎日それが目に入っていたからである。ただ、実際の表情豊かな顔は、予想していたより若々しかった。温厚な人柄のおかげで、たくさんの責任ある仕事を抱え込んでも、過度の心労に悩まされることがないのが若々しさの原因らしい。」など。
 米山は、前の『ロータリーの創設者 ポール・ハリス』の翻訳のあと、昭和11年3月、前年出たポール・ハリスの『This Rotaran Age』を翻訳、出版した。題名は『ロータリーの理想と友愛』である。この本は、最初の出版の後、入手できなくなっていた。戦後になって、昭和30年12月、昭和42年2月と版を重ねた。



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