米山梅吉記念館は日本のロータリーの創始者 米山梅吉の遺品等を展示しています

米山記念館とは


  【 目 次 】
1. 米山梅吉記念館の歴史
2. 旧記念館の建設
3. 新館建設とその後
4. 米山文庫こども図書館
5. 館内の案内
6. 収蔵品の案内
  

1. 米山梅吉記念館の歴史

 公益財団法人米山梅吉記念館は、昭和44年3月26日、財団法人米山梅吉記念館として設立されました。これに続いて、同年9月16日記念館(旧館)の建設がなりました。 この誕生を促したのは、静岡県駿東郡長泉町下土狩にあった米山梅吉終焉の場所である米山別邸の宅地分譲の情報からでした。 これを伝え聞いた地元のロータリアンらが米山別邸保存運動へ、そして米山記念館建設へとかりたてて行きました。
当時の三島駅(現在の下土狩駅)<br>(『人物寫眞集 米山梅吉翁』より)
当時の三島駅(現在の下土狩駅)
(『人物寫眞集 米山梅吉翁』より)

米山別邸の由来
 米山は、幼少の頃を過ごした長泉の地をこよなく愛し、故郷長泉に本邸とは別の拠点として明治42年12月下土狩駅の近く長泉町下土狩に土地を取得しています。
 東京新橋と神戸をつなぐ東海道本線の全線が開通したのは明治22年7月のことです。開業当初はまだ丹那トンネルは開通しておらず、国府津から沼津の間は現在の御殿場線を経由していました。当初、佐野駅(現在の裾野駅)から沼津駅までは駅がなく、明治31年になって三島駅(現在の下土狩駅)が置かれました。
 現在の下土狩駅は昭和9年12月に丹那トンネルが開通して現在の三島駅が出来るまでの間、三島駅として営業されていました。この長泉村唯一の駅である三島駅は、その後長い間、同時に三島町まで敷設された豆相鉄道とあいまって、三島伊豆方面の玄関口の役割を果たしていました。
 米山別邸は、下土狩駅からほど近い場所でした。一方、長泉町上土狩にある米山本邸は、下土狩駅から直線距離にして1500mほど北東で、歩けば30分ほどの道のりになり、幹線鉄道の駅のすぐ目の前の別邸の地は、東京に活動の中心を置く米山にとって、うってつけの場所であった筈です。
 米山は、大正6年この地に別邸の建築をはじめました。木造2階建てで、1階42坪、2階20坪ほどのこじんまりしたものでした。2階建てにしたのは、前にはよりよく駿河湾を望め、後ろには富士山が良く眺められるからであったと思われます。ここは、富士山噴火のときの溶岩がいたるところ露出し、少し小高くなっていました。ここを訪れた歌人の佐々木信綱は、「君は駿東郡下土狩に邸あり。起伏おもしろき丘の上に、めずらしくも竜舌蘭の花咲きたりとて、招かれて訪ひし事ありしが、」といっています。 佐々木信綱がここを訪れたのは、昭和6年7月のことです。
 米山は、この別邸が気に入り、人に来訪をすすめており、病がちとなった晩年には、ここで過ごすことが多くなりました。そして、ここが米山終焉の場所となりました。この土地は米山死後、嗣子米山桂三が家督相続し、昭和26年5月、多くの部分が知り合いの会社に渡たりました。資産家である米山家の遺産の処理は、大変なことであったと思われます。その後、一、二所有名義が変わり、昭和41年6月、不動産会社に移りました。それまでの一時期、昭和31年に短い期間首相をつとめた石橋湛山が居住していたこともありました。

別邸入口
米山別邸保存運動
そんなとき、この米山別邸が不動産会社によって分譲されるという情報がもたらされました。これを機に長泉町周辺の沼津・沼津北・三島・伊豆長岡(現伊豆中央)の近隣ロータリークラブの会員何人かが米山別邸保存の動きをはじめました。なんとか、この由緒ある家屋敷を手に入れ、ロータリアンのための保存をしようというものでした。
 この地元の会員の中心となったのが鱸正太郎でした。鱸は静岡ロータリークラブの所属で昭和40-41年度の第359地区(神奈川県・静岡県・山梨県)のガバナーをつとめており、その立場から保存運動の代表者的な役割を果たすことになり、鱸を中心として地元ロータリークラブの間で米山別邸の動きが表にでることになります。保存の対象となるのは、およそ340坪の土地と2階建60坪余の建物で、これを入手するには、千数百万円を必要としました。これには相当広範囲にわたり募金を呼びかけなければいけませんでしたが、まず地元で自発的な募金活動をはじめ、それを全国に広めることとなりました。
 こうして「米山別邸保存会(仮称)」と銘打って、有志が別邸の保存に乗り出し、静岡県東部の11クラブに呼びかけるとと同時に、当時の359地区内にも募金を呼びかけました。この結果、およそ450万円の募金が得られました。しかし、別邸を取得するには遠く、また、時既に遅く、分譲が進んでしまっていました。そこで、方針を変え米山本邸の土地に目を移しました。
 米山本邸は、米山家先祖伝来のもので、米山家が所有し昭和21年4月28日米山没後、家督相続により米山桂三の所有となっていました。およそ1000坪の広さで、米山が分骨されている米山家の墓地もすぐ近くで、当時ここには長屋門が残されていました。
 この敷地の一角を借り、別邸の建物を移築し、これを記念館にしようという計画でしたが、当初米山桂三は「日本のロータリークラブを創立したのは父だけの功績ではない。他の有力者の協力の結果によるもので父の為に計画してもらうのは本意ではない。」と言って承諾してもらえなかったといいます。しかし、地元の方々の熱意に了解し、土地の一部を提供する。ただ、別荘は殆ど腐朽しており移転は無理であろう。せめて米山家代々の長屋門を記念に残してもらえれば嬉しい。との意向を示してもらえました。その際、米山梅吉の遺品等について、火災で大部分消失したが、残っているものについては記念館へ提供する申し出を頂きました。
 その後、有志が会合して協議の結果、別邸を移築する計画を取り止め、この集まりを「米山記念館建設準備委員会」と改めました。新たに鉄筋コンクリート製の記念館を建設し、出入り口には本邸に残されている長屋門を原形のまま補修して使用する方針が決められました。
 こうして米山記念館建設準備委員会がスタートしますが、目途のついている資金では、長屋門の修理、敷地内の造園を考えると、記念館の建物は12坪となってしまい、もっと大きな建物とするため、募金目標を1600万円とし、広く全国規模で募ることとしました。
財団法人「米山記念館」建設準備委員会の発足
 こうして昭和43年5月24日、米山記念館建設準備委員会が発足され、主な方針として、記念館の建設を全国的な規模で呼びかけること、建設後の管理運営のために財団法人を設立することが決められました。 昭和43年5月24日、それまで沼津北RCが担当していた事務局をこの建設準備委員会の事務局に移され、金銭も沼津北RCから移管されました。この時点での募金は、静岡県東部を中心に、静岡県内全域のクラブ、それに第359地区内の神奈川県内のクラブや個人的なものが主として合計544万6564円が引き継がれました。その後、ロータリーの友の編集事務所から米山梅吉翻訳の『ロータリーの理想と友愛』の売上があったなどとして100万円の応募を得られ、また第360地区(愛知県・長野県)の地区大会から多額のものが贈られました。 このような篤志を含め、昭和43年7月末までに700万円余の募金が得られることになり、とりあえず最低限の建物建設の目途もつきました。昭和43年10月29日、既に募金に応じてくれたクラブ、個人に中間報告をするとともに、今度は目標額を2000万円とし、全国のロータリークラブ、ガバナーに応募のお願いをしました。その結果、法人設立申請時の昭和44年3月18日現在で1536万円となりました。募金は建物完成後にも続き、昭和45年6月30日には1810万円となり、目標に対し、9割の達成を得ました。
 このように、北は北海道、南は沖縄に至るまで、全国津々浦々のロータリークラブ、個人から募金を得られました。沖縄県のクラブからは当時の情勢から、ドルでの寄金でありました。このほか、三井信託銀行、三井銀行本店、三井信託銀行のOB会などからも相当額の寄附を得られました。

2. 旧記念館の建設とその後の運営

旧館
旧館
 機運が熟し、記念館建設の槌音が聞けるようになりました。大きくなくてもよい、小さなものでよい。豪華なものでなくてもよい、質素なものでよい。
ただ、きらりと輝くものであれとの願いである。埴生の宿でも、楽しい我が家である。そんな関係者の思いがかなって、記念館の完成がなりました。しかし、その後の道のりは決して平坦なものではなく、幾多の難題がありました。
財団法人の設立
建物である記念館の建設をハードの部分とすれば、その運営、維持のソフト面の管理主体として、財団法人を設立することとなりました。これについての監督庁との折衝、具体的な作業は発起人の一人小林完(沼津北RC)が担当。昭和44年2月21日に財団法人米山記念館設立発起人会が開かれ、理事長は松井謙一(沼津北RC)、常務理事には宇野三郎(沼津RC)がなり、事務所は沼津北RCの事務局のある桃中軒とし、事務は沼津北RCが担当として、昭和44年3月18日設立許可の申請をし、3月26日の許可となりました。
記念館の建設
資金的に記念館建設の目鼻がついた昭和43年の秋頃から設計の準備に取りかかりました。設計と建物建築は瀬川篤(三島RC)が担当しました。方針として2階建て延約50坪を目途とし、昭和44年1月頃までに概略図ができました。法隆寺の夢殿にも似た外観の六角形の建物でした。設計者はこの以前に奈良県高取町の米山の実父方和田家の菩提寺、光明寺にその墓を訪ね、その折、法隆寺にも寄っています。当初の案では屋根の勾配が急でありあまりにもお寺のようだということで手直しがされ、床面積1階 84.15u(25.24坪)、2階 79.33u(24坪)の鉄筋コンクリート造り2階建てと管理棟(長屋門)42.97u(12.99坪)、1階は玄関、ロビー、展示室、事務室。2階は小会議室、大会議室と決まりました。地鎮祭が昭和44年3月2日に米山桂三、発起人らが出席し挙行され、上棟式は米山23回目の命日である昭和44年4月28日に行われました。
 長屋門は、建築前、現在の新館敷地出入口部分にあったものが移築され、正面右側を管理人室、左側を書庫に改造され、8月終わりには完成しまし、昭和44年9月16日竣工なった記念館の開館式が行われました。

展示室



会議室



事務室
開館後の運営
 記念館が完成し、法人も設立されましたが、解決しなければならない問題が数多く残されていました。開館当初は電話もなく、電話が引かれたのは昭和45年秋になってからでした。常時管理人を置くための財政的な余裕もなく、隣の福昌寺の住職に管理人をお願いしました。事務局である沼津北RCに参観の申し出があると管理人に連絡をし鍵を開けて案内をして頂きました。その為、突然の来館者には対応ができず、沼津北RCの誰かがかけつけるなどの対応をしていました。
 また、場所のわかりにくさも問題でした。現在は伊豆縦貫道が開通し、記念館前の桜堤通りが整備されましたので、東名高速・新東名高速からや三島駅からのアクセスが向上し、わかりやすい道となりましたが、当時は記念館周辺の道路は迷路のように入り組んでいて、間違えずにたどり着けることが奇跡的なほどでした。その為、細々ではありましたが道案内を設けましたがとてもそんなことで解決できることではありませんでした。長泉RCが設立されてから、その骨折りで標識の数が増しましたが、本質的にはかわらず、又、周辺の道幅が狭い為、大型バスの乗り入れが困難を極め、駐車場が無いことも問題でした。
 ただ、一番の問題は常駐の管理人がいないことで、参観者の対応もむろんですが、常時開いていないことで建物の傷みが大きく早いことも問題でした。これは財政的なことが大きな要因であり、基本的には寄附に頼るしかありませんでした。財政的な安定の為、当時理事長の松井は出ずるを制し、余剰があるとこれを三井信託銀行の貸付信託に回し、その運用益で収入の安定を図ろうとしましたが、これも多くを期待できるものではありませんでした。
 記念館建設の為の浄財のお願いは、昭和45年度で終了し、その後は各ロータリークラブ、地区の周年行事や近隣クラブの炉辺会談の余剰などの寄附に限られていました。昭和48年度になり第359地区(神奈川県・静岡県・山梨県)から年間ロータリアン一人当たり200円の資金を得られることになり、これで年間約100万円強の安定的な資金の見込みが立ちました。第359地区は昭和49年度になり神奈川県の第359地区と静岡県・山梨県の第362地区に分かれ、第359地区は現在第2590地区と第2780地区に分かれていますが、両地区からの寄附は現在も続けられています。地元の第359地区(現在は第2620地区)からは現在までも多くの寄附を頂いています。このような資金の安定も得られ、平成5年からは常置の管理者として、元長泉町教育長の吉川邦夫、郷土史家の柏木勲を頼むことが可能となりました。
 昭和44年3月3日、米山家より約150坪の土地の借用を受け記念館が建設されましたが、ここにはほんの僅かの駐車場の設備しか無く、車で来館される方の不興をかっていました。松井理事長は米山圭三に地続きの土地の借用を再三に渡りお願いし、承諾を得られ、昭和52年2月24日394.05坪を借り受けることができ、普通車9台、大型バス1台分の駐車スペースを確保することが出来ました。
土地の取得
 昭和54年11月17日、米山の嗣子米山桂三が亡くなりました。翌昭和55年になって米山桂三の遺族により、記念館敷地およびこれに隣接する土地全部の譲渡の申し出がありました。遺族からの申し出は、記念館建設のため当初借り受けた土地150坪を財団法人である記念館に寄附する。これに接続する843.45坪について、買受をということでした。代金総額では8400万円余となります。当時の記念館の総資産は3500万円ほどで、しかもその3分の1は建物、構築物でした。収入は昭和50年当時で毎年250万から400万前後、その内訳は基本財産の運用益と利息などで100万円から150万円、後は寄附による収入でした。寄付によるものも、第259地区、第262地区から拠出してもらっているものが見通せるだけで、その他の寄附は不確定なうえ固定的な経費や修理費などの経費を考えれば多くの剰余を見込めないのは明らかでした。
 それまで記念館の運営を支えて頂いてきたパストガバナー5人の方に発起人に加わって頂き、広く寄附をお願いする為に、まず地元第262地区に1口1万円の募金をお願いする募金活動が始まりました。これにより昭和55年の年度中に1240万円の募金があり、さらに全国のロータリアンに1口2000円以上の募金を呼びかけました。
 これにより昭和57年度中の募金額は7,440万円に達し、予定のほぼ9割に届くことが出来ました。後は通常の寄附でまかなうこととして、昭和57年3月31日に土地所有権の移転登記を行なうことが出来ました。

3. 新館建設とその後

新館建設基礎工事
新館建設基礎工事
 記念館も認知度が高まり徐々に来訪者が増えて来ました。米山詣でというキャッチフレーズもあり、平成4年には1000人、平成6年には2000人を超えるまでになりました。中には移動例会という形で大勢の方がお見えになるケースもありましたが、記念館2階の会議室ではとても入りきれず、もう少し大きな建物が求められてきました。
 そんな中で平成7年8月に行われた記念館理事会において米山記念館建設委員会の設置が決定され、新館建設へと動き出しました。
 建設の為の資金は全額寄附に頼らざるを得ませんでした。寄附総額の目標は最小5億円、内建物に3億円、展示保管施設に約2億円を見積もり、全国のロータリアン、東京ロータリークラブ、米山記念奨学会、記念館在所の第2620地区、及び近隣神奈川の第2590地区、第2780地区など広く寄附をお願いすることとなりました。

新館
 こうして、平成8年より全国に寄付の依頼を開始し、平成11年7月までに約3億3千5百万円の寄附を募ることが出来ました。
 平成9年7月16日 地鎮祭が行われ順調に建設工事が進み、平成10年4月28日に落成式が行われました。新館は鉄筋コンクリート地上3階建て、総面積1,026u、展示室210u、ホール195u、ロビー190u、会議室55uなどとなっています。
現在の記念館運営
 
財団法人米山梅吉記念館は平成23年に公益財団法人に移行し評議委員会、理事会管理の元、記念館立地の第2620地区(静岡・山梨)の米山記念館委員会6名、地区内13クラブからガバナー委嘱の24名の運営委員による運営組織で運営されています。
 現在記念館には全国からクラブの移動例会はじめ米山奨学生研修、地区役員研修や個人など年間を通しは4,000名前後、120以上のクラブがご来館されています。その折には、常駐の学芸員を中心に、地元の役員、上記委員が記念館成り立ち、米山梅吉翁の生涯、社会貢献などご説明や墓参ご案内などに対応いたしております。

4. 米山文庫こども図書館

米山文庫こども図書館
米山文庫こども図書館


昭和6年、米山梅吉は長泉小学校に図書館及び蔵書約1,000冊を寄贈しました。「米山文庫」と名付けられ、生徒達に利活用されました。満州事変勃発の年でした。「当時、不況の波に人々が喘いでいたとき、この事業は氏の愛郷の精神の賜物であると共に、人々にとって明るい話題であった」とその由来にも記されています。悪化の一歩を辿る社会状況の中、せめて心の栄養だけは枯渇させまいとの思いがあったのではないでしょうか。
 旧記念館の建物は現在「米山文庫こども図書館」として運営されています。平成22年4月29日、長泉RC、米山記念館、長泉町の3者により、この米山文庫が復活されました。旧記念館を改装した建物は、国産の杉板張り。素足で歩ける館内は、本が一目で見渡せる棚に囲まれています。子どもの絵本を中心に、約4500冊を蔵書し、広く一般に開放され、現在は年間7、000名余に9,000冊が活用されるなど、親子や地域の交流の場を呈しています。

5. 館内の案内

展示室入口

第一展示室
ポール・ハリスと米山梅吉、米日ロータリーの祖が迎えるこの展示室では、米山翁を生い立ちから紹介しています。銀行家としての活躍、報恩会の事業の様子など公私共に携わった活動を知ることができます。


第二展示室
米山の墨跡、書簡等を展示しています。
愛用の品を通じて一個人としての米山梅吉、その人生に迫ります。

 


第三展示室
米山が創立に奔走した日本のロータリークラブ。
そのロータリークラブの歴史を、貴重な資料を交えてまとめました

 

ホール
春・秋例祭の会場。毎週水曜日には地元長泉RC、金曜日には裾野RCの例会場となります。移動例会も受付けています。
一般の方のご利用も可能です。
詳しくはお問い合わせ下さい。

 

ロビー

 

6.収蔵品の一部ご紹介

米山梅吉執務机

三井信託銀行社長当時、米山梅吉が使用していた机と椅子


名刺入れ

米山が、三井信託社長時代に新入社員の入社祝いに配布した名刺入れ。刻印された「KEEP YOUR NAME CLEAN」は三井信託の社是「奉仕と開拓」と相まって、信託マンのあるべき姿を示しているようでもある。あなたならなんと訳しますか?


寄せ書き帳
大正10年、梅吉の友人が集まって書いた寄せ書き帳。遅塚冷水(小説家)、巌谷小波(小説家)、和田英作(画家)入沢達吉(医師、随筆家)らが自画像と自作の俳句や漢詩を書いている。梅吉の俳句は「古戦場新戦場春一様に」「月一夜アトリエに人のどよめきて」が掲載されている。
竜舌蘭の写真
昭和6年、下土狩の別邸にあった竜舌蘭が開花した。この知らせを聞いて、梅吉の短歌の師匠歌人佐佐木信綱氏もこの花を見にやって来た。この時梅吉は「故郷の庭に竜舌蘭の花さけるに」と題して短歌を三首詠んでいる。
『幕末西洋文化と沼津兵学校』
昭和9年に発行された米山の著書。
ペーパーナイフ
1935年、ポール・ハリスが来日の記念に東京帝国ホテルの庭に月桂樹を植えた。しかし、時を経て樹勢が衰えていった。帝国ホテル本館取り壊しの際に、他の木と同様破棄されそうになったが、なんとか手を尽くし、挿し木をすることによって月経樹はその生命を継ぐことができた。これは、枯れてしまった原木からできたペーパーナイフ。現在、記念館には月桂樹2世が生育しており、この2世から次世代の挿し木も育ってきている。

 



米山梅吉記念館 〒411-0941 静岡県駿東郡長泉町上土狩346-1 TEL.055-986-2946 FAX.055-989-5101
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