米山梅吉記念館は日本のロータリーの創始者 米山梅吉の遺品等を展示しています

【 目 次 】
1.米山梅吉と福島喜三次の出会い
2.東京ロ―タリ―クラブの設立
3.東京ロータリークラブ会長時代と大震災後の意識変革
4.英米訪問実業団
5.スペシャルコミッショナー、理事
6.地区ガバナー
7.ロータリーの拡大
8.米山梅吉とポール・ハリスおよび その来日
9.米山梅吉の会合での発言
10.時流のなかで
11.戦前の日本ロータリーの終焉

3.東京ロータリークラブ会長時代と大震災後の意識変革

<創立直後の例会の状況>
 米山は、東京ロータリークラブが大正9年10月20日設立されると、その会長に就任した。幹事は、ダラスでの邂逅の相手、福島喜三次である。ただ、福島は、第1回、第2回の例会に出席した後、三井物産大阪支店に転勤し、退会した。
 例会は、毎月第2水曜日、昼の12時30分から午後2時までであった。創立総会後、第1回は、大正9年11月10日、年末年始の休会があり、第2回は大正10年2月9日であった。第1回の例会には、24名中17人の出席、第2回の例会には、ジョンストンを含め19人であった。
 役員の任期は、変則で、4月からだった。大正10年4月から、米山が会長に重任された。副会長は宮岡恒次郎で、幹事は三神敬長であった。その翌年の大正11年4月から会長は、宮岡であった。したがって、米山は、2期というけれど、大正9年10月20日から大正11年3月31日までの1年半の会長であった。
 東京クラブのできた頃、ロータリーの規則は、必ずしも週1回の例会ということではなかった(週1回となったのは、1922年(大正11)6月のロサンゼルスにおける年次大会から)。東京クラブでは、月1回の例会であった。これは、その後規則が変わってもこの月1回の例会が関東大震災の後まで続いた。創立直後で、会員間では、定款、細則に関心が薄かった。不慣れで、欠席がちであったり、会員も錚々たる人達で、いくら米山に言われたからといって、とてもおいそれと言うことを聞くようなことではなかった。口うるさく言う米山が煙たがられがちであった。

 会員数は、大正11年には33名となり、その年の終わりには49名、大正12年半ばには53名となった。しかし、会員の出席率はよくなかった。英文『歴史』では、大正12年4月の例会では、55%の出席率で、会長、副会長も欠席であったと記されている。ちなみに、大正10年8月10日の例会で、相馬半治と増田義一がイニシェイショリイ(initiatory)スピーチをしたという記載がある。現在のロータリークラブで、新しく入った会員が入会後間もなく、イニシエイションスピーチを行うのが習わしになっている。これが記録のうえで見る最初のものであろう。一方では、米山自身もロータリーの内容がそれほどわかってはいなかったと思われる。暗中模索ということであったのかもしれない。それでも米山であるから空中分解することもなく、なんとか求心性を保っていた。
 
<関東大震災>

 そんなとき、会員に意識改革をもたらしたのが未曾有の大災害、関東大震災であった。大正12年9月1日の関東大震災のニュースが世界を駆け抜けると、世界各地のロータリーから救援の手が、救援の思いが続々と寄せられた。これが世間に広くロータリーを印象づけることになった。
 日本のロータリーは、大変な不幸を経て、大変革を遂げたともいえる。
 東京クラブは、震災後、例会を開く場所がないため休会した。 10月1日、銀行集会所の食堂が開かれることになったので、10月10日に例会を開いた。しかし、出席会員は27人、53%の出席であった。このときは、会長、副会長が欠席だったため、米山が例会を主宰した。米山は、震災のとき軽井沢にいた。とるものもとりあえず、なにはともあれ東京に帰ってきた。米山は、出席者にこもごも自分の体験や様子を述べさせた。
 

【写真】関東大震災の被害の状況
(『日本の100年』日経ナショナルジオグラフィツク社より)


 その後の10月24日の例会は、創立記念日のお祝も兼ねたので、出席者も多かった。このとき、米山は、大震災に対する国際ロータリーや各地のロータリークラブの同情と好意、しかも素早い処置に触れるとともに、9月4日付の国際ロータリー会長の電報(国際ロータリー及び全ロータリークラブを代表して深甚なる同情の意を表す。何でも御手伝いすることあれば幸です。)や書面、その後各地から寄せられた見舞状等を読みあげた。
 そして、会員にロータリー精神の発揚とこれに基づく活動の必要を訴え、改めて各地に対し感謝の意を表すべきであるとした。さらに米山らしい修辞的ないいまわしの説法で、会員に訴えた。すなわち、米山は、米国の友人から贈られたロータリーのバッジをメンバーに示した。それは、米山のオフィスの灰の中から掘り出され、元の形と色あいを保つたまま奇跡的に発見されたものである。それを示しながら、「この小さなバッジのように、Rotary Spiritは、地震や火災によっても生きながらえ、輝きつづける」と。
 震災後の第3回目の例会は、11月14日であった。ここで、米山は、「東京クラブの例会が月1回であるのは、国際ロータリーの通念から見ると変則であるが、創立当時の事情からやむを得なかった、震災復興の困難な事業に直面した今日において、会員はロータリーの大きな目標を達成するために、更に深い友情と親睦を確立する必要がある、これからは毎週1回例会を開くことにすべきことを提案する。」と諮った。この提案は、満場一致の賛成を得た。
 米山は、これからは、これまでのように会合の通知を会員に送ることをしないようにと幹事に指示した。それまでは、幹事が例会数日前に全会員に通知を出していた。いままでどうしてもできなかった毎週1回の例会を開くことができるようになった。これも大震災のもたらした結果である。震災の好意に対するお礼やこれらのことを報告した東京クラブの会長に対し、国際ロータリーの会長から、「毎週例会を開くようになったという情報は、非常な喜びである。」という返事がきた。国際ロータリーとしても東京クラブのこの変則は、頭痛の種であったことであろう。
 11月14日のこの例会で、救援金の使途について特別委員会を設けることになり、委員に米山ら5名が指名された。この委員会が提案した事業のうち、とりわけロータリーの家(Rotary Home)は、後々まで世間にロータリーを印象づけることになった。
 ちなみに17の国、地域の503のロータリークラブ(米国375クラブ、英国60クラブ、カナダ40クラブなど)から救援金、救援品が寄せられた。救援金は、最終的に国際ロータリーより7万4216円30銭、他のロータリークラブその他より1万4944円82銭、合計8万9161円12銭となった。今の金額にしたら、どの位になるのだろうか。
 東京クラブの『わがクラブの歴史』に、次のような記述がある。「大震災直後に於ける機敏な米国の好意が日本国民に与えた感銘は大なるものであったが、同時に東京クラブはロータリー精神を身に沁みて感得し得て、心の底からロータリーの発展を念願し、世界の各国民に対し好意と友情を以て接することは国民外交の要諦であることを知った。此の事実は東京クラブに関する限り震災のもたらした忘れ得ざる収穫であって、その後、機会ある毎に各国ロータリークラブ会員の来訪を歓待すると共に、RI大会には万障を繰りあわせて出席者を送る様になったのは嬉しいことである。」

4. 英米訪問実業団

 話は前後するが、米山は、大正10年10月15日から翌年1月9日まで、團琢磨を団長とする英米訪問実業団に加わり、米国に渡った。一行は、団長の團を含め24名であった。この団員の顔ぶれは、日本のロータリーにとって、興味ある取り合わせである。これには、米山の後の第2代スペシャルコミッショナー、第2代第70区ガバナーとなる井坂孝、大正6年10月目賀田種太郎を委員長とする特派財政経済委員で一緒だった松本健次郎(後、第70区ガバナー)も加わっていた。さらに、大正11年11月、大阪ロータリークラブを創った星野行則の顔もあった。
 この訪問団が取り上げられたのは、第一次大戦が終わり、日英同盟の意義が薄れてきたことから、英国との間がとかく疎遠となるようになった。そんなとき、外交官によらず、日英実業家の意見交換をということが発端だった。だから、当初は、英国訪問だけということであった。もしそうなら、米山は、加わらなかったかもしれない。その後、訪問団の編成の過程で、米国における戦後の経済事情を調査するのも急務であるといって、米国をも訪問することとなり、訪問団の名称も英米訪問実業団となった。このため、団員の選定には曲折があったようである。
 

【写真】(『日本の100年』日経ナショナルジオグラフィツク社より)
英米訪問実業団出発の新聞記事
(大正11年10月16日付東京朝日新聞

 米山自身、歌集『八十七日』の歌日記の冒頭に「這回〔今回〕は余には公私の事情長き旅行に上がりがたき理由ありて、その選を免れむと希望したるも、せめては米国のみにてもとの勧告に従ひて」参加したということを書いている。このとき、米山は、東京クラブの会長であった。その会長の時期、月1回の例会とはいえ、3ヶ月にもわたって留守にすることになる。
 折しも、ワシントンで、軍縮会議が行われ、その全権委員に加藤友三郎、徳川家達外が任命されるなどし、その一行とも同じ船で渡米することとなった。このため、この訪問団の目的がワシントン軍縮会議の応援団的なものでもあったなどと取りざたされた。そうでもあったのだろう。しかし、形のうえの目的は。
 「英米先進國の経済界、殊に欧州大戦後の最も変化のある時代の経済組織を研究するとともに、英米実業家と肝胆相照し、若し両者に誤解あればそれを解き、共同して平和的に東洋経済界の発展に努め、さらに経済関係にとどまらず、世界平和にも貢献するであろう。」 というものであった。
 一行の出発は、10月15日であったが、団長の團は、健康上の理由から、出発が遅れた。10月22日に出発し、バンクーバーに着いた後、ニューヨークに向かい、11月9日に一行と合流している。そして、団長の團が帰国したのは、翌大正11年5月7日という長期のものであった。このように、半年以上に及ぶ日程であって、一行全部が同じ日程というわけではなかった。
 ところで、米山のあるいは米山についての文章をみていて、積極的に発言し、意見が述べられていることを感ずる。ロータリーの組織のなかでの発言、意見は、米山にとって、自分か創設にかかわったという自負心があるから当然である。そうでない会合、場面についてもそうである。しかも臆するところがない。人との交わりについても、年齢、立場を超えて、誰に対しても交誼を展いていく。そして、相手からも信頼を得られていく。人間が好きなのであろう。年令を経ることによる匡正ということもあるであろうが、それよりも天性のものを感ずる。この英米訪問実業団のときの記録のなかでもそれが感じられる。このミッションでは、実に多くの交歓会、懇親会が行なわれた。そのなかで、このときは、米山が演説をしたという箇所が目につく。また、野口英世を訪ねだり、テオドール・ルーズベルト夫人を訪問したりなどである。この団での米山の働きは、大きかった筈である。健康を害していたのに、無理に団長を引き受けた團への心遣いもあったであろう。


【写真】ホテル・アスターでの日本協会晩螢会(『團琢磨傅』上巻より)

 この一行は、12月13日、ニューヨークからロンドンに向かったが、米山は、ここで一行とは別れた。『八十七日』にもあるように、英国に渡らず、ニューヨークから引き返し、大正11年1月9日、帰国した。この一行の目的は、前記のようなことであったが、米山には、次のようなこともあった。米山は、その年の1月、長男東一郎を亡くしている。それによる精神的な痛手は大きく、気晴らしのこともあったであろう。
もう一つは、三井銀行のニューヨーク支店開設準備の総仕上げである。三井銀行は、当時ニューヨークに出張員を置いていたが、取引の増加から支店設置の準備をすすめ、支店開設の間際であった(開設は大正11年3月)。米山は、このとき、三井銀行の常務取締役であった。

【写真】歌集『八十七日』


ホワイトハウス前(『團琢磨傅』上巻より)

 後に三井銀行の社長となった佐藤喜一郎は、大正9年暮れからその開設準備のため、ニューヨークに滞在していた。米山が秘書を連れていなかったことから、米山のニューヨーク滞在中は、佐藤ら現地滞在者が米山の世話をしていた。そのときのこと、佐藤は、「私は米山さんから紐育RCを訪問したいから案内せよとの命を受けた。ところが当時私はロータリーについては何も知らなかったので、紐育RCの所在も判らず米山さんが例会に出席されるのではなくクラブを訪問しようとされたことも当時の私には判らなかった。……やっと電話帳その他でRCの所在をつきとめ、・……相当立派な紐育RCの本部を訪問した。アメリカ人のこと だから非常に気嫌よく迎えてくれたが、どれもこれもワイシャツ一つで腕まくりをし葉巻をくわえている。……この訪問は、すくなからず米山さんを失望させたようでその後10日以上の紐育滞在中1度も例会に出ようとはいわれなかった。」というような話をしている。米山は、ニューヨークのロータリークラブというから、自分と同じように、もっと高いものを頭に描いていたことであろう。そうはいっても、米山は、この旅行から帰ってきた後の東京クラブの例会で、好印象の話をしている。
 また、米山は、行きに11月4日シカゴ着、8日に出発するまで、中3日間、シカゴに滞在した。帰りは12月16日にシカゴに立ち寄っているが、多分行きのとき、ロータリーの本部を訪ねている。ポール・ハリスに会いたかったのであろうが、会えず、事務総長のチェスリー・ペリーに会った。そこで、ペリーから、ロータリーの純金製のバッジを贈られた。
 米山は、帰国後の大正11年1月25日の東京クラブの例会で、「米国の行った先々のロータリークラブや会員から、温かい、熱烈な歓迎をうけた。とりわけ、Chesley Perry事務総長をはじめロータリー本部事務局のメンバーやシカゴロータリークラブの会員には格別な歓待をうけた。」ことを話した。
 そして、米山は、「Ches」によって贈られた純金製のRotaryバッジが気に入ったようで、これをみんなに披露した。そして、東京クラブでもこういうものを作ろうと提案したであろう。すぐ、外国からのお客さんに贈るバッジを作ることがきめられた。最初にできたものは、滑らかなエッジの丸い銀製のもので、歯とスポークの間を七宝でちりばめたものであった。もう一つ、会員からの要望で、車輪の歯の部分が突出して銀色に輝くタイプのものが作られた。東京クラブは、数年間、これらを外国からの訪問客に贈っていた。
 一方、先のようにこの一行のなかに星野行則がいた。星野は、英国、フランスに渡り、この訪問団がパリで解団した大正11年2月5日まで一行と同じ行程をたどった。

【写真】『八十七日』の11月4日の部分(『八十七日』より)


 『大阪ロータリークラブ50年史』には、「星野が英米訪問実業団の一員として、海外に行 くことになったので、その機会に各地のロータリークラブの実況を見てくることになった。そして、大正11年の春、シカゴのロータリー本部でペリー幹事に会い、大阪にクラブを作ることをすすめられ、創立に関する全権を委嘱された。」という記述がある。
 星野は、大正11年2月5日の団解散のときはパリにいた。これからすると、そのあと米国に引き返し、シカゴに立ち寄ったことになる。星野は、出発前、ともに大阪クラブの創立に参加した福島喜三次と会っている。当然、米山が東京クラブの会長であることは知っていたであろう。横浜を出てニューヨークで行動を別とするまでのほぼ60日間、顔を合わせていたことである。米山との間でロータリーの話が出てもおかしくない。また、米山は、星野のごく前にロータリーの本部を訪ねている。ペリーとの間でも日本の米山が訪ねてきたことの話が出たかもしれない。いろいろの巡り合わせを感じざるをえない。
 ちなみに、出発に先立つ大正11年9月30日、首相官邸で、首相原敬主催のこの訪問団のための晩餐会が開かれた。また、軍縮会議一行とともにした東京駅での出発には、原敬も見送りにきた。米山は、そのとき、原敬と握手を交わした。それが、米山のシカゴに着いた日の11月4日、平民宰相といわれた原敬は東京駅南口で、兇刃に倒れた。米山は、このことについて。「禍だよりヒ首わが胸に立ちし如さわれ大丈夫の最期なりける」という歌を残している。

5. スペシャルコミッショナー、理事

〈スペシャルコミッショナー〉  
 大正9年10月、東京ロータリークラブができたあと、大正11年11月、日本で2番目の大阪ロータリークラブ(登録番号1349)ができた。
 大阪クラブは、先にも触れたように、星野行則が英米訪問実業団の一員として、外国に行った折り、シカゴのロータリー本部に立ち寄り、設立の承認を得て、創立したものである。星野が会長で、その幹事には、東京から大阪に転勤してきた福島喜三次があたった。
 大阪クラブは、東京クラブと違い、最初から模範的な運営がなされたという。そして、東京の大震災のときは、物資の多くが関西の港に陸揚げされるため、幹事の福島はじめ大阪クラブの会員は、東京クラブへの引き継ぎに大変な役をした。その後、ほぼ2年間、日本には、ロータリークラブができることがなかった。ロータリーの本部は、まだ拡大の余地があると見たのであろうし、国内でもロータリークラブ結成を要望するものがあった。
 大正13年(1924)7月、日本にスペシャルコミッショナーが置かれるようになった。国際ロータリーは、このスペシャルコミッショナーに米山を任命した。
 スペシャルコミッショナーというのは、地区の置かれていない地域で、地区ガバナーに代る役を務めるものである。
 米山は、この初代スペシャルコミッショナーに就任したあと、昭和元年(1926)6月まで、2期スペシャルコミッショナーを務めた。
 米山のスペシャルコミッショナー時代に次のロータリークラブが設立された。
 神 戸(登録番号1986)大正13年 8月13日
 名古屋(登録番号1907)大正13年12月18日
 京 都(登録番号2184)大正14年 9月28日
 神戸ロータリークラブは、大阪クラブがスポンサークラブ、創立時21名、会長は、松方幸次郎である。
 この神戸クラブの創立については、次のような面白い逸話がある。
 大阪クラブか発足した翌々年の大正13年(1924)、この福島喜三次が星野行則とともに来神し、クラブの創立を決め、松方幸次郎を設立委員長に指名するようペリーに打電した。ところが、ちようどそのとき、日本における初代コミッショナーとして米山梅吉が決定した直後だったので、まず米山の承諾を得て、その手で申し入れるよういわれた。そんなことで連絡が悪く、登録料を米山の手を経て納めたのが大正14年(1925)3月12日、登録は4月15日となった。神戸より4ヵ月おくれて発会した名古屋クラブの登録の大正14年2月7日よりも遅くなったわけで、そのため、日本で3番目にできた神戸クラブが、登録では名古屋に抜かれ4番目になっている。
 名古屋ロータリークラブは、東京クラブがスポンサーで、米山の意をうけた小林雅一が設立に動いている。小林は、米山が大正6年政府特派財政経済委員の1人として米国に行ったとき、ニューヨークではじめて会った。小林は、熱心かつ慎重に準備し、大正13年12月18日、名古屋クラブの設立にこぎつけた。京都ロータリークラブは、東京クラブがスポンサーで、創立会員35名、会長は、わが国建築界の権威である武田五一であった。創立は大正14年9月28日であるが、10月28日その発会の披露の会があった。このときの模様について、大阪クラブの会報がすさまじい。
 ここで、その米山に対する批判の文章の内容を記してみる。
京都クラブの発会披露の会合は、始まりが夜8時からだったという。それは、東京クラブからの参加者の都合に合わせたもので、会合としては、異例の時間であった。これには、他のクラブから東京6名、大阪9名、神戸2名、名古屋2名が出席した。ここで、米山は時余すなわち1時間余りにわたり、話をしたという。大阪からの参加者は、帰りの列車の都合もあって、空腹をこらえて、イライラしていた。そして、食事がはじまって、大方が会半ば予定の列車に乗るため中座してしまった。
 その3日後の例会の発言が大変であった。夜8時からの会合で、食事前だというのに、時余にわたり、挨拶をするというのは常識そのものである米山とは別人であるとか、ある会員は、普通は一夜あければ、癩の虫が治るけれども足掛け3日たった今日でもまだ気持ちが治まらないと口を極めて米山を非難した。それにつけ加えて、米山は、新しくできた京都クラブやその他のクラブのことは口の端に乗せたが、大阪クラブは、9人もの会員が大挙出席したのに、大阪のオの字も触れないとは全くけしからん、などなど。
 大阪クラブでは、会報でも会員をあだ名で記していた。そのことが余計その会合での発言のすごさを強調することでもあった。米山に対する直接的な批判の文章を余り見かけないが、こんなこともあったということで、敢えて大阪クラブの会報の内容に触れてみた。
 ところで、前年から設立の準備に取りかかっていた三井信託株式会社が大正13年3月創立され、米山は、その初代社長となった。三井銀行の常務取締役は既に辞めていたが、まだ取締役であった。


【写真】「信託の話」のラジオ番組 (大正15年4月17日付東京朝日新聞)

米山は、翌年2月には、信託協会の会長になった。そうして、信託協会が社団法人となるととともに、その会長に就任した。大正15年4月17日には、愛宕山の東京放送局から信託の話のラジオ放送をしている。日本のラジオ放送は、大正14年3月22日からで、はじまってまだ1年少々のころのことである。
 日本への信託業の導入が一段落して、米山は、大正14年春、夫人春子、次男駿二、三男桂三を伴って、支那、満州、朝鮮に旅行した。

〈国際ロータリーの理事〉

 米山は、大正15年6月の米国、デンバーの国際大会で、国際ロータリーの理事に選任され、その7月から就任した。この当時、日本には、東京、大阪、神戸、名古屋、京都の5つのクラブしかなかった。アジアでは、初めての国際ロータリーの理事であった。
 当時、世界のロータリークラブの数は、37の国と地域で、2396前後のクラブ数であるのに 日本には、上記の5つである。いかに国際ロータリー本部において、米山の印象が強かったかである。と同時に、日本が世界のなかで、外交の面だけでなく、一般においても認知されつつあったのかもしれない。
 それにしても、当時の理事会の審理、議決はどのようにしていたのであろうか。米山はこの理事の間、米国に行った形跡がない。書面による審理、議決で行われていたのであろうか。
 この時期、米山にとっては、切ない時期であった。大正10年1月に長男東一郎を亡くした後、大正15年6月4日、次男駿二を亡くしている。長男が20才の時、次男は21才であった。暗い気持ちであったに違いない。米山58才である。
 米山が国際ロータリーの理事となって、スペシャルコミッショナーは、大正15年7月から第2代の井坂孝が就任する。井坂は、大正11年12月からの東京クラブの会員で、大正14年4月から大正15年3月まで東京クラブの会長を務めた。横浜ロータリークラブ設立の際には、特別代表であった。第3代は、大阪クラブの平生鋲三郎である。平生は、後の昭和11年3月、広田弘毅内閣の文部大臣を務める。

<第2回太平洋地域ロータリー大会>

 昭和元年5月、第1回の太平洋地域ロータリー大会がホノルルで開かれた。参加は、8ケ国で、433名の出席であった。日本では、このとき、東京、大阪、神戸、名古屋、京都の5つのクラブであった。1年も前に招待状が来ていた。東京クラブでは、on-to-honoluluという委員会まで作って参加を勧誘したが、出席しようという会員がなかったという。その年6月、アメリカ、デンバーの国際大会に出席予定であった東京クラブの水嶼峻一郎を東京クラブだけでなく全クラブの代表とすることとした。

【写真】太平洋地域ロータリー大会


 ホノルル大会では、今後、2年毎に大会を開催することが決議された。そして、第2回は、東京で開催をということになった。
 こんなことから、第2回は、昭和3年10月1日から4日まで、東京クラブが主催して、東京、帝国ホテルで開かれた。
 このころまでに、横浜、京城のロータリークラブができていた。東京クラブの会員は、前年昭和2年末で151名になっていた。
 この大会には、海外から109名、国内で459名の参加があった。家族を含むものであるが、日本始まって以来の大きな国際行事で、準備も大変であった。
 これには、国際ロータリーの会長であるメキシコのトム・サットンも出席した。この大会は、国際ロータリー太平洋地域大会ともいうものである。でも、これは、国際ロータリーの主催ではなく、この第2回のそれまでは、開催するクラブが主催するものであった。それだけに、主催者としての気苦労があり、準備も一層気を使った。

【写真】太平洋地域ロータリー大会
(RI会長トム・サットン夫妻を囲んで)


 この年の7月、後に触れるように日本に地区がおかれ、米山がガバナーとなっていた。
 東京クラブの準備は万端、大成功で、参加者によい印象を与えた。このことがあってか、国際ロータリー会長のトム・サットンは、日本びいきとなり、その後の日本ロータリーの無理な要求にもよく理解を示し協力をしてくれた。トム・サットンは、昭和10年、京都で開かれた第70区の年次大会に国際ロータリー会長代理として出席している。
 このとき、米山は、主催者である実行委員長として、また成立したばかりの第70区のガバナーとして、概略次のような挨拶をした。
 「環太平洋地域のロータリークラブは、ここに集まった皆様に代表されている。そして、思いやりのある奉仕の心という共通の認識で、強く結びついている幸せなグループである。国際ロータリーや太平洋大会は六つの目的に向って前進しなければならない。政治家や思想家が考えられないくらいの困難や諸問題を暖かいポットで溶かすように奉仕につとめよう。
 日本のロータリーは、まだ生まれたばかりの新しい組織であり、クラブも7、会員数385と小さな組織である。今回この会議が開催されたことは、この生まれたての組織にとって、大変貴重な経験である。今後、全ロータリーのために貢献するよう努めたい。」


米山梅吉記念館 〒411-0941 静岡県駿東郡長泉町上土狩346-1 TEL.055-986-2946 FAX.055-989-5101
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